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【在る】ものを見つめるまなざし
妄想、の域に近いのだけれど、
頭の遠くの方で薄ぼんやりと考えている
叶えたい夢、が私にはあります。
それは「Bed & Breakfastを開く」
「いつか子ども(男の子)が生まれ
たら、朝と書いてトモと読む名前をつける」
そして「科学者・数学者限定
の会員制のバーを開く」ことです。
Bed & Breakfastは、
イギリスに住んでいた頃
そして何度か旅行に行った時に
しみじみ「いいな〜」と感じた
民宿のような場所です。
放っておいてくれる
ドライなホテルも好きだけれど、
人のお家をちょっと覗かせて
もらっているような
適度な親密度が
居心地がよくて好きなのです。
その名の通り、
泊まる部屋と朝ごはんだけを提供する、
仕事を引退したおじいちゃん・おばあちゃんが
「よかったら泊まって行ったらどう?」
といってくれているような、
いい意味でガツガツしてない
(経営のことは二の次で、
旅人がたまに来てくれたら
それはそれで楽しいのよね、くらいの
スタンスだと私は解釈している)
緩やかな空気が流れているところが
とても私の体質に合っているのである。
ネッシーとかいう恐竜が出たという噂のネス湖の
ほとりに建つ、古い教会を改築したB&Bや、
荒れ狂う冬の海のそばに立つ灯台の近くのB&B
(本当にこんなところまで来る人いるのね!
という驚きと、そこにフツーに暮らしている
じいちゃん、ばあちゃん夫婦がいるという
かっこよさ)、ファームハウスを営んでいる
ご家族のお家の一室を解放しているB&B
(朝になるとヤギが「バァァァァー」と鳴く)。
そしてB&B(大抵はお手頃な値段で
泊まれるのが魅力です)と謳っているのに、
タクシーの運転手のお兄ちゃんが
「ホントにここ……?」
とちょっと絶句しちゃう、
古いヴィクトリアン建築の3階建ての
立派すぎるB&B(勝手な進入禁止、の文字が
木戸に書かれていて、恐る恐るそれを開けると、
なぜかぐねぐねに寝そべった黒猫が
石の階段の上で出迎えてくれた)などなど。
それぞれのキャラクターが際立っていて、
だからこそ「あー、面白いなー」
と思えるのがB&B。
そんなB&Bを私もいつか!
と静かに鼻息を荒くしている日々なのです。
(ほぼ妄想の域、だけど)
さて、前置きが長くなりましたが、
「朝」と書いてトモと読ませる名前を
我が子につける、これは自分とは
全く遠く離れた存在であり、
それゆえに憧れと尊敬と敬慕を
どうしても感じてしまう
「科学者」からのつながり。
物理学者の朝永振一郎の名前を見た時、
「何なの!このかっこいい名前!」と、ある種、
恋に落ちてしまったのですね、ええ。
朝なのにトモ!
素敵すぎる……。
という訳で、自分の中で勝手に決めた。
そして興味を持つと
調べたくなる気質のこの私。
【岩波文庫 緑 152-2 科学者の自由な楽園
朝永 振一郎著 江沢 洋 編】を
読んで、朝永振一郎その人にも
「すてき……」となってしまったのである。
家の池を掃除した時に、
大量のおたまじゃくしが出てきたそうで、
それを近所の子どもたちに分けてやろう、
と彼は考えるのです。
それで夕方、画用紙に
「おたまじゃくしあげます。
入れものをもって
とりにきてください。 朝永」
と書き、それを垣ねにぶら下げた。
<中略>
二番目のお客は予想どおり
三時ごろやって来た。
それは一年坊主の子どもたち四人。
彼らは盥から獲物を掬うのが面白く、
皆でわいわい大さわぎしながら、
めいめい百ぴきぐらいずつ持ち帰った。
掬うとき地面におちたのを、
そのままでは死んでしまって
かわいそうだと、一ぴき一ぴき
つまんでは水に返したりしている
気のやさしさ。
<中略>
そして暗くなったころ、
女の子が一人やってくる。
この子はたいへん几帳面な子らしく、
獲物を一ぴき一ぴきたんねんに掬い上げて
いる。感心したのは、みな帰りがけに
有難うを忘れないことである。
<中略>お客のなかに人なつこい
男の子がいて、坊やのうちはどの辺なの、
と女房が聞くと、
あそこの何々屋の角をこうまがって、
それから、こう行ってこう行ってもよいし、
もう一つさきをまがって、こう行ってこう
行っても行けるんだよ、などと言い、
小母さん、つれてってあげるから
ぼくのうち見てよ、という。
小母さん今ちょっと御用がある、というと、
いつすむの、と聞くから、四時ごろ、
というと、それじゃそのころむかえに来る、
といって帰った。
四時になると、その子はほんとにやってきた。
それで女房がついて行くと、
その子の家の庭には小さな池があって、
クロレラの類で濃い緑色になった
水が湛えられていて、おたまじゃくしは
その中に入れてやったという。
そして子どもが言うのには、
池の中に石を置いて、おたまじゃくしが蛙に
なったとき上る島を作りたいが、
水が緑色で中が見えないので、
石を入れるとき、おたまじゃくしが
その下敷きになってつぶされないか心配だと。
何と子どもらしい心配であることよ。
科学者つながりで、
私がこれまで読んで「むふ〜」となった、
科学者関係の本を偏見と個人的好みにより、
勝手にご紹介。
① 放浪の天才数学者
エルデシュ
ポール・ホフマン著
平石 律子 訳
草思社
「天才」で「数学者」とくると、
天才でも数学者でもない私は
なになに?とそれだけで興味を
惹かれてしまうわけなのですが。
数学者ってエキセントリックで、
日常的な生活とかには無頓着で、
ちょっとずれている人たちという
いい意味での偏見を体現しているのが
このエルデシュ。
シリアルの箱は開けられずに
中身をぶちまけ、
ジュースのふたの開け方がわからず、
ナイフで側面に切り込みを入れてしまう。
どこにも所属しないし、
決まった家も持たない。
志を同じくする数学者のもとを
訪ね歩いては、ひたすら問題を解く
という一生を送りました。
子どもをエプシロンと呼び愛し
(エルデシュ語で幼い子どものことを表す。
数学で使われるギリシャ文字で、きわめて
小さい正の実数を意味する:本文より引用)
共著を書いたかどうかで
数の大きさが変わってくる、
エルデシュ番号なるものを作り出す。
(数学の論文を一緒に書いたことがなく、
ただの人たちはエルデシュ番号∞だそうです)
「変わっている」というだけで
片付けられてしまいそうな彼ですが、
私はこのエピソードがとても好きでした。
エルデシュはまた、
自分が気の毒だと思う人と特別な絆を築いた。
一九四五年、フィラデルフィアの
フランクリン研究所で政府の軍事研究に
携わっていたマイケル・ゴロムに、
エルデシュから電話が入った。
町を通りかかるから、会いたいと言う。
ゴロムはその晩数学者仲間の家で
開かれるパーティに出かけるが、
エルデシュが来てくれるなら、主催者が
喜ぶだろうと伝えた。
エルデシュはパーティへやって来たが、
数学者たちと話をせずにさっさと
姿を消してしまった。
「一晩中、姿が見えなかった。
パーティがお開きになる頃になって、
ようやくぼくらはエルデシュが何を
していたかを知った。
その家には、パーティに出てこられない
目の不自由なおじいさんがいた。
おじいさんは二階の部屋に
ひとりきりで座っていた。
エルデシュは、かれと話したがっている
パーティの参加者よりも、
ひとり取り残された
目の不自由なおじいさんを選んだんだ」
とゴロムは語った。
ピーター・ウィンクラーも
エモリー大学にいる時に、
エルデシュの同じような面を目撃した。
「ひじょうに優秀な学生がいた。脳性マヒで
車椅子に乗っていた。ポールは
この学生を見るやすぐに近寄って、
なんの病気にかかっているのか、
予後はどうなのかを尋ねた。
そしてわずか一〇分で、
この大学院生について、
かれが数学科に入って以来わたしたちが
知りえた以上に詳しくなった。
その後、学生がなにを勉強しているのかと
訊いた。学生は博士課程で
研究中だったので、
ポールはいくつか助言を与えた。
すばらしいことだった。
かれはいつもこういうことをしていた」
ポール・ホフマン著 平石 律子 訳
草思社
② 永遠についての証明
岩井 圭也
角川書店
小説です。
数学の才能に恵まれた、
おそらくはこれまた天才と分類される
のであろう主人公の暸司と、
初めはその仲間であった
「天才になるほどには
神様に選ばれなかった」けれども
数学の能力がある友人との話です。
天才の常なのか、
共に数学について語り合える
一番の理解者である大学の教授が
彼の元を去ることから、
彼の世界は崩壊し始めます。
ただ数学を愛していて、
数学のことだけを
考えていたいだけなのに、
彼の周りの世界はそれを許してくれません。
次第に飲み込まれていく暸司。
仲間と思っていた、それゆえ
小さな子供のような純真な心で
(それがまた、天才ではない人を
傷つけるのだとはわからないまま)
よりどころだと思っていた
熊沢と佐那も彼を残して
去って行ってしまいます。
しかし、絶望の末、暸司がいなくなった後、
彼の残した証明を引き継ぐのも、また
「天才ではない」この二人なのでした。
エルデシュもそうでしたが、
周囲の人々が擁護し、
その価値を容認してくれて初めて、
天才は天才のまま
存在し続けることができるのかもしれません。
③ 世にも美しき
数学者たちの日常
二宮 敦人
幻冬舎
11人の数学に関わる
年代も様々な人たちが出てきます。
数学者であり、数学を教える人であり、
数学とは遠いところで生きている人たちと
数学をつなぐ人であり。
この中に「ゼータ兄貴」として
紹介されている中学生が、
前述の「永遠についての証明」で、
終盤「未来につながる希望」のように
登場した人物となんだか重なるな〜
と思って読みました。
私は常々、
「人はそれぞれが違う存在なのだから、
違っている、分かり合えないということを
出発点として理解しあうことを
始めるべきだ」と思っているのですが、
その考えを「そうだよ、それでいいんだよ」と
認めてもらえたような気がして
嬉しくなりました。
そして、フィンランド語で
「少年」を表す言葉はなんだか、かわいい。
数学の答えが一つなのは、
人に押しつけるためじゃない。
価値観の異なる存在同士が、
それでも何か一つ、
共通の答えを見いだすために
編み出した技法が、
数学だからなのだ。
僕たちは皆、かけ離れた存在である。
ゼータ兄貴も松中さん(数学教室
講師)も僕も、
価値観も能力も全く違う。
時には宇宙人と同じくらいの
距離感があるかもしれない。
だが、事実を悲観するのではなく
正面から受け止め、
ではそんな人間同士で手を繋ぐには
どうしたらいいか考えたのが、
数学者だったのではないか。
そして決まりが作られ、
表現するための数式が生まれた。
事実を一つ一つ積み上げて、
真摯に心と心の間に論理の橋を築いた。
そもそも数学の本質が
深く考えることだとするなら、
数式なんていらないのだ。
ゼータ兄貴に楽譜が必要ないように。
それでも数式が
この世に存在する理由はたった一つ、
誰かとわかり合い、分かち合うためである。
二宮 敦人
幻冬舎
④ ドミトリーともきんす
高野 文子
中央公論新社
昔の学者って、
どうして言葉が美しいんだろう?
そんなことを思っています。
派手な表現や、
刺激的なことを並べ立てることなく、
極めて常温のまま、
こちらの心にじんわり
染み込んでくるような言葉遣い。
それは、言葉を生業にしている人だけでなく、
科学者にも共通していて。
そんな美しい言葉の科学者が4人登場します。
私の好きな朝永振一郎の他に、
植物学者の牧野富太郎、
物理学者の湯川秀樹、
物理学者の中谷宇吉郎が出てきます。
ともきんすという寮に4人が生活している
という設定で、それぞれの研究のことを、
柔らかく教えてくれる漫画です。
「作文が苦手」だったらしい湯川秀樹の
「詩と科学-子どもたちのために-」は、
その言葉が単なる謙遜と恥じらいで
あっただろうことを裏付けます。
詩と科学遠いようで近い。
近いようで遠い。
どうして遠いと思うのか。
科学はきびしい先生のようだ。
いいかげんな返事はできない。
こみいった実験を
たんねんにやらねばならぬ。
むつかしい数学も
勉強しなければならぬ。
詩はやさしいおかあさんだ。
どんなかってなことをいっても、
たいていは聞いてくださる。
詩の世界には
どんな美しい花でもある。
どんなにおいしい
くだものでもある。
しかしなんだか
近いようにも思われる。
どうしてだろうか。
出発点が同じだからだ。
どちらも自然を見ること聞くこと
からはじまる。
バラの花の香をかぎ、
その美しさをたたえる気持ちと
花の形状をしらべようとする
気持ちのあいだには、
大きなへだたりはない。
<中略>
何れにしても、
詩と科学は同じ場所から
出発したばかりではなく、
行きつく先も
同じなのではなかろうか。
そしてそれが遠く
はなれているように思われるのは、
とちゅうの道筋だけに
目をつけるからではなかろうか。
どちらの道でも
ずっと先の方まで
たどって行きさえすれば、
だんだんちかよって
くるのではなかろうか。
そればかりではない。
二つの道はときどき思いがけなく
交差することさえあるのである。
⑤ 女子中学生の
小さな大発見
清 邦彦 編著
新潮文庫
ちびっ子の頃、女子としては
おしとやかとは言い難い日々を
送っていた私は、
とにかく何でも
「自分で確認したい」子どもでした。
そして、「どうして?」「何で?」
を繰り返しては、大人に嫌がられ
「大学に行くと詳しく勉強できるから、
大学生になってから
そういうことは考えなさい」
という答えをもらっては、
納得のいかない思いを
し続けていました。
探求するための
体力と忍耐力に欠乏のあった私は
科学者にはついぞなれませんでしたが、
通信教育の付録で付いてきた
カニの形の温度計が、
いつも25℃近辺で止まっているのを
不思議に思い、
「右端の40℃までこの赤い液体を
持ってくるにはどうしたら良いのか」
を考えた結果、こたつの中に入れて
熱の出てくるところに最大限近づけ、
しかし注意力散漫なせいで、
入れたことをすっかり忘れて、
振り切った温度計から赤い液体は飛び出し、
一緒に入れていたタオルを真っ赤に
染めた(もちろん、親に怒られる)とか、
ツマグロオオヨコバイの
頭と胴体を分断して観察したりとか、
自分にとっての不思議には
割と忠実な日々を送っていたと思います。
女性の科学者が少ないと言われるのは、
「お年頃」を強烈に意識するのが
女性は多いからというところも
あるのではないだろうかとも思います。
客観的に自分を見ることができる女性は、
「こんなこと考えてるって
知られたら恥ずかしい!」と
思ってしまうキュートさもあるのでは
ないでしょうか。
でも、おもしろいこと、変だと思うことが
なくなる訳ではありません。
この本の中学生たちのように、
「変じゃないよ」「やってみたら」と
のびのび(ちびっ子の頃の興味の赴くまま)
を許容してくれる雰囲気があったなら、
きっと世界はもっと楽しくなるのにな〜。
身近なところで、気になったことを調べる、
そこから科学はスタートするのだ
ということがよくわかります。
私が一番好きだった観察はこれです。
【Uさんは忘年会で酔っぱらうと
どうなるか観察しました。
バイトのお兄さんIは変化なし。
IIは吐きそうな顔をしていて、
IIIは酔う前に飲むのをやめてました。
お父さんは「うちの娘はかわいい」
と言って、おひげじゅりじゅり
してきました。】
冒頭の朝永振一郎も、湯川秀樹も、清先生も。
子供の発想をそのまま「おもしろい」と
見つめている人たちだなと思います。
そこに「在る」ものを変に歪めたり、
手を加えたりしないで、
まずはただ「見つめる」。
子供を変に子供扱いせず、
庇護するだけの存在としてみるのでもなく。
自分は「教えてあげる」立場だという
凝り固まった考え方もせず。
一つの独立した個体、
個性として同等に尊重してくれている、
そんな姿が見えてくるのです。
そこが、私を惹きつけてやまない
科学者の美しさではないかと。
そんな科学者が集まる
(私の独断と偏見で会員を選ぶ)
Barについての妄想も書きたかったのですが、
さすがに長くなりすぎたので
またの機会に譲ろうと思います。
いつ開店できるのだろうかー。
いいなと思ったら応援しよう!
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