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短歌「読んで」みた 2021/11/01 No.19

 短歌「読んで」みた第19回。今回は「星」を詠んだ短歌を探していて目に止まった一首を。私たちはいつから星に住む自分を意識し始めたのだろうと思いつつ、人との関係の終わりの頃の歌を読んでみました。

どんな遠くに逃げてみたところであなたもわたしもこの星にいる
 佐藤りえ『フラジャイル』(2003年 風媒社)

 特別な関係であった2人の現在。その関係がどのようなものであったのかはこの一首の中からは読み取ることは出来ない。でも今、2人はもう違うものを見ている。明確な主語がないために、どちらがどうだとはわからない。作者はそうしたくてそのように歌を作っているように思う。どちらがどうではなく、ただ現実がそうであるのだ。そして緊迫してはおらず、遠くや高いところから見ているような超然とした感覚が感じ取れる。しかしそれに陶酔してはおらず、超然としつつそれも屹立し過ぎていない。それがまた痛々しい。ここに等身大の主体がいる。

 この雰囲気は定型にはめずに作られたことが大きいと考える。どこまでが上の句なのかも読む人によるだろう。例えば「どんな遠くに逃げてみたところで」までを上の句とも出来る。初句はどこまで?全体の句またがりだとしても一音足らない。それに続く下の句、4句目にしたい「あなたもわたしも」は8音で一音余る。ここまでやってこういうのもなんだが、この歌はそう読むものではないだろう。短歌の音律で区切られていないことはこの歌の大切な部分で、吐息のように吐き出される心情をあらわしている。

 どこまで逃げたところで、地球上のこと。お互いにそこからは出られない。主体が追いかける側だとして執念を感じもすれば、諦めを感じもする。しかし追いかけているようで、主体は現実から逃げているようにも感じられる。しかしこれが現時点で主体が出来る精一杯にも見える。関係の終焉への折り合いをつけている最中の揺れる心が現れた一首だと感じた。

  *  *  *

 息苦しくなるような一首だ。
 人との関係や距離がうまく取れなかった自分の学生時代を思い出した。今ならわかるのだ。破綻した関係は絶対に元に戻らない。それがわからないから、なんとか今まで通りやっていく道はないのか、探してしまった事が多々ある。でもそんな努力は実ること無く結局は別の道を行くこととなった。それが必要なことだったのか、無くていいものだったのかはわからない。経験するから理解出来ることなのかもしれない。

 自分をないがしろに扱った人に対して消えて欲しいと思うことに、私はルール違反だと思わない。そう思ってる本人だって、たいてい本当にそうなって欲しいなんて思っちゃいない。愛着の深さからの反動であって、それを聞かされた他人は傷の深さを慮るのみだ。それでいいのに、この歌ではあなたが私と「この星」、同じフィールドにいることを認めている。もう、なんで?!と思うし、これをやさしいとか未練とか冷静とか現実的とかいろいろな見方で見ることも出来るけれど、これもまた一つの受け入れのかたちだろう。
 消えてほしいと思おうと、同じ星にいると思おうと現実は変わらない。受け入れがたくてもなんとか受け入れて、日々に助けられて取り戻していくしかない。この歌の人の、自分なりに自分の納得できる形で向き合おうとする姿は共感しか無い。思わず彼女の前途を祈ってしまったが、私が思いをかけなくてもこの人はこの後復活したことだろうと思う。

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