陸軍省で働いていた祖母のこと③
陸軍省で働いていた祖母のこと①、陸軍省で働いていた祖母のこと② の続きです。この③で終わりです。いくつかの疑問と孫の目から見た祖母、そして願い。
疑問
・卒業年
祖母の話について今回この文を書くにあたって、私が知る全てをそのまま書き起こしています。考証出来ることの時期や事実関係に矛盾はありませんでした。
一つだけあるのは女学校の卒業が一年早いこと。しかし祖母の陸軍省時代の身分証明書で入職日は昭和18年8月であるのは明白だし、そこに貼られた写真の祖母は女学校の制服を着ています。祖母は県立の高等女学校卒であることを誇りにし、私も何度も同窓会に連れて行かれてます。この点については今後、卒業証明書を取り寄せて解明したいと考えています。
・階級章
祖母は軍属として入職したはずですが、身分証明書には赤い三本線に星1つが入っています。軍人ならかなり高い階級なのですが、軍人と軍属の階級章は違うはず。というところまでは私も追えてますが、その軍属の階級章一覧まで調査が行き着かず、今のところ謎になっています。憲兵や特高警察にこの身分証明証を出すと、敬礼されてそれ以上の追求はなかった、と祖母は言ってました。
・見つからない
身分証明書があり勤めていたのは明らかなので、祖母の息子にあたる叔父が数年前に年金の支給を求めて厚労省やあちこちを徹底的に調べたようですが、祖母の記録は見つからず駄目だったとのこと。
その他エピソード
・職場は英語禁止ではなかった。しかしわざとなんでもスワルトバートル=座布団、ヒネルトジャーデル=蛇口 など敵性語の言い換えのように言うのが流行り、みんなで楽しんでいた
・佐渡の訛りがなかなか取れず、職場でからかわれて悔しかった
・お米が無くなると自分か妹が手紙を書く。後で「今回手紙書いたのは私だから(私の取り分が多いのが当然)」とご飯の分配で激しく揉めた
・随分後年ですが、別のところで機密のタイプライターだった女性が練習用として雑書綴を持ち出していた、そこから陸軍の一部の秘密がわかった、というニュースに「絶対ウソよ!反故は全て回収されたし、部屋から出る時はポケットは全て確かめさせられ、なにもないか厳しく検査されて絶対に持ち出せなかった」と言っていたこと
・三島由紀夫事件の映像を見て、「あらあ懐かしい。私あそこで働いてたの」と言う。75歳頃のこと。事件の当時もそう思ったと言っていた
孫の目から見た祖母と戦争
その後の祖母の人生の流れから見ると、この2年半の体験で祖母の人生は変わってしまったように思えます。ここからとても苦労します。
そこには厳しい体験からの燃え尽きがあったのではないか、と私は見ています。投げやりにもなっていたようです。戦後は戦犯追及を恐れてひっそり暮らしていたようですが、その後の2年ほどの話は一度も聞いていません。その間に何があったのか、どうしていたのか。昭和22年の私の実母の出産も祖母の母の里でひっそりとしています。結婚離婚があったことなど私も謄本から知ってはいましたが、全く話に出ないことは生前、どうしても聞けませんでした。祖母も、その後再婚した祖父(私にとっての祖父はこの人)も実母も他界した今、想像するしかないのですが、その様子からは幸せな状況ではなかったように見えます。仕事も過去職を問われない職場を探し働いていたようで、そこからも体験が祖母にもたらしたものの重さを感じます。
ただ、祖母は自分にとって特別なものとしていたのは間違いありません。私に昔のことを話してくれる時、特に職場での話はいつも楽しそうでした。しかし職務上知り得た秘密は一つも言わず、良くしていただいた将校さんや軍人さんの名前、淡い交際の学生さんの名も出さず、通っていた短歌会のことも言わず。私が短歌を始めた時も、「へー。私も昔やってたんだー」と言うのみでした。秘密が出来ず、普段はなんでも喋ってしまう祖母にしてはカードが固く、それだけ大切にしていたのだろうと推し量るのみです。
よく「自分の祖父母の戦争体験をしっかり聞いておこう」などの提案がありますが、限界がありました。祖母亡き今、もっと話を聞いておけばよかったとは私も思っているのですが、過酷な体験だとわかっていることを突っ込んで聞く事は出来ず、話してくれるのを受け取るのみ。歳とともに記憶がゆるやかになり、晩年に近い数年ほどは、私がこのままでは失われてしまうと危機感を持って尋ねてもかなり忘れてしまっていて話が通じず。そのまま昨年、祖母は亡くなりました。
めぐりめぐって戦争がなければ実母も存在せず、私も息子たちも存在しないかと思うと、この時期は考えずにいられません。
家業のため、8月15日はいつも目が回るように忙しかったのですが、したたるほど大汗をかきながら12時前になると必ずテレビの前に走ってきて、
「ああ暑い暑い。なんで毎年晴れるんだろうね?!あの日もカンカン照りで暑かったわー」
と言いつつ、追悼式の映る画面とともに黙祷していたことを思い出します。
祖母の職場の有り様は機密を扱っていた関係から記録が残されておらず、関係者も存命の方がほぼいなくなっていることから、これが唯一なのではと思います。
日本が戦争をしていた頃、一人故郷を離れて精一杯青春時代を送り、多くの同世代とは違う体験をして、人生が大きく変わった女の子の話を知ってもらえれば本望です。