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【短編小説】文選の旅

「あげるから!」
 足早に駅へ向かうスーツ姿の彼がそう言い放ったので、落としていった名刺を持ったまま、私はぼうっと突っ立っていた。
「あげる、って…。」
 今会ったばかりの、会ったというよりすれ違っただけの赤の他人の名刺をどうしたものかと眺める。
 個人情報満載の紙切れは、おそらく警察か落とし主の会社に連絡をしなくちゃいけない気がする。
「面倒くさいな…。」
 私も急いでいる身なので、後にしようとひとまずパンツのポケットにねじ込み、バイト先に向かった。
 
「お疲れ様です。」
 売り切ったパンのないトレイを下げながら、早番のバイトさんに挨拶をする。お昼を過ぎると、ほとんど客足もパンもない。
 いそいそと厨房に入り、エプロンから白衣に着替えて手を洗おうと、洗面室に向かう。今から夕方の閉店時間まで、残った材料なら試作をしていいことになっている。秋の新作を出したばかりで、その必要はないのだけど、焼きたてを食べれるという謳い文句に私は大いに惹かれて、バイト先を決めた。
 ふと、白衣の裏から白い何かが落ちた。慌てて拾い上げて、今日の朝の些事を思い出す。じわっと滲んだ水分が、名刺の厚さを示す。「ずいぶん、しっかりした紙。」
 少し指先で擦ると、画用紙のように皮膚を引っ掛けていく。
「珍しい、のかな…。」
 正直、名刺を持ち歩く職種が未経験の私には、名刺にどんな用紙なのか、よく知らない。それでも、もう少し滑るような触り心地だった気がする。
 それにさっきは気づかなかったが、文字がへこんでいて、そこだけ影を落としたように深い溝を作っている。ざらざらが平たく延ばされた黒い文字は、見方を変えると浮き上がって文鎮のような威厳を感じる。急に名刺が重たくなった気がした。
「名刺って人柄も載るのかな。」
 あるわけないか、と呟くと、ちょうど扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
 急いでまたパンツのポケットに、今度は奥の方に押し込み、売り場へ戻っていった。
 
「お母さん、ちょっと名刺見せて。」
「名刺ー?」
「そう、名刺。」
 帰ってきて洗面所へ向かう母の背中に、声をかける。
「なんで名刺?」
 どかっと、ダイニングの椅子に置いた通勤バッグから名刺入れを取り出すと、一枚くれた。
「うーん、今日駅前で名刺拾ってさ。」
「拾ったの?」
 玄関に置いてきた買い物袋を冷蔵庫まで運びながら、私が突き合わせた二枚の名刺に目を落とす。
「重厚感あるね、それ。」
「でしょ。」
 やはり、母の名刺は今朝の名刺より薄い。サラサラと滑る紙の上に印刷された文字も、指になんの抵抗も与えないまま通り過ぎる。
「なんで持って帰ってきたのさ。」
「落とした人がすぐ近くにいたから、渡そうと思ったの。でも、あげるって言われちゃって。」
「あげるって?」
「そう。」
「へえ。」
 冷蔵品をしまっている母は、まだこっちを見ていない。一番厄介な部分を、何気なく母に聞いてみた。
「でも、届けなきゃでしょ。個人情報だし。」
「そうねぇ。」
 やっぱりそうだよなぁと、頭を抱えそうになる。
 しばらくして、カバンをどかして座った母は、知らない誰かの名刺を透かすように返し返し眺める。手っ取り早く返す方法はないだろうか。
「私が連絡するのって、この人の会社かな。それとも警察?」
「どっちでもよかったと思うよ。」
「手間が少ないのは、会社かな。」
「そうねぇ。」
 名刺に興味を示して空返事の母に呆れて、ソファに体を投げ出す。
「電話、お母さんかけてよ。」
 返事はない。
「ねえ、お母さん。」
「この人、結構こだわり強そうね。」
 急に母と目があった。
「どういうこと?」
「これ、活版印刷で刷られてる。」
「なんだっけ。はんこみたいなやつ?それがなんでこだわり?」
「今はほとんどプリントだもの。活版で刷ろうと思わなきゃつくれないよ。」
 なぜか愛おしそうに名刺を撫でる母の横顔が、窓から差し込む夕日に染められている。
「お母さん、その活版印刷の感じ、好きなの?」
「そうね。掠れたインクとか文字の迫力とか。」
「でもたしか、廃れた技術なんでしょ。」
「廃れたからこそ、価値が出てくるのよ。なかなか出会えない貴重さも、一つひとつ違う風合いも価値になる。」
「アンティーク的なやつか。」
「そうそう。」
「へえ。」
 母から名刺を受け取って、もう一度眺める。インクが滲んだのか太くなった電話番号のゼロが、いくつか浮かんできて、つい数えてしまう。ゼロが好きなのか、はたまた不器用なのか。文字を一つ触るごとに、名刺に刻まれた人の輪郭が浮かぶ気がして、面白くなってきた。
「でも、その人あげるって言ったんでしょ。」
「そうだった。なんか急いでたんだよね。走ってっちゃって、返せなかった。」
「新手のナンパかもね。」
「え。」
「冗談よ。」
 母はそう言って立ち上がると、ぱたぱたとキッチンへ入っていく。
「電話は、自分でしなさいね。」
 換気扇の音と一緒に、母の言葉は外へ流れていった。
 
 次の日も、名刺はパンツのポケットに入っていた。家を出る前に一応名刺の主と会うかもと思い、忍ばせていたのを思い出す。結局、電話はかけていない。
「活版印刷って知ってる?」
「活版印刷?うちでも扱ってるよ。どうしたの急に。興味あるの?」
 文具屋と掛け持ちをしている橙《とう》ちゃんに、何の気なしに聞いてしまった。接客中だと言うのに、橙ちゃんはニヤニヤが隠せていない。
「いや、その。昨日名刺を拾ってさ、母が活版印刷が使われてるって言うから。」
「え、なにそれ。どんな経緯よ。後で見せて、絶対。」
 焼きたてのパンを出すように指示された橙ちゃんは、私に目で念押しをしてから厨房に入っていく。
 橙ちゃんの文具愛は並大抵ではない。語り出すと長いのが厄介だが、熱情の籠った話はやっぱり面白い。
(今日の上がり一緒?)
 トレイを持って出てきた橙ちゃんが壁にかかった時計と、自分の腕時計を交互に見て問うので、首を縦に振る。
(そのはず。)
(おけ。待っててよ。)
(待ってるよ。)
 橙ちゃんが立てた親指に負けないくらいの親指を見せてから、私はレジ打ちに戻った。

「で、どういうわけよ。」
「別に大したわけじゃないよ。ただ、活版印刷の名刺を拾ったってだけ。」
 自転車を押す橙ちゃんに、ポケットから取り出した名刺を見せる。器用に私の指から奪い取ると、橙ちゃんはまじまじと見つめる。
「ほんとに活版だ。すごいすごい。」
「活版印刷って珍しいんだね。」
「珍しいっていうか、そうだね。出番が少なくなった技術。今は、プリントしちゃえば済むからね。いちいち文字を拾ったり、組んだりするのは手間がかかるわけ。パソコンなんてほら、レイアウトから文字の大きさからフォントから、全部つくれるでしょ。便利な時代〜。」
「拾う?」
「そう。金属に掘られた活字を母型っていうんだけど、それを一つずつ並べていって、印刷したい大きなハンコを作るイメージかな。たとえば、この会社名。『株式会社 有明堂』は、『株』『式』『会』…って一文字ずつ箱から活字を探して、縦に並べていく。で、並べていった活字を紐で一つに括って、インクをつけてから紙に写す。」
「あんまり効率的じゃないね。」
「今の技術と比べたらね。当時は、活版印刷が普及したおかげで印刷できる部数が一気に増えて、本や新聞が手軽に買えるようになったんだから。」
「本って高価だったの?」
「そうだよ〜。手書きの本だって考えたらどう?一冊作るのに何日かかるか。」
「うへえ。」
 何百ページもある小説を手書きとなったら、1ヶ月は裕にかかるだろう。気軽に間違えられないのだろうし、ひたすら根気のいる作業を想像し、くらくらする。
「でもちょっと、この名刺、変なのよね。」
「変?」
「うん、電話番号のゼロだけが太いし。それに、名前は最後だけ妙に隙間ができてて均等じゃないの。」
 ほら、と指差す四文字の名前は、四文字目だけ若干離れているように見える。
「ほんとだ。でも、手作業でしょう。一文字ずつ組むならズレることもあるんじゃない?押し込みの圧でインクが多くついちゃうとか。」
「手作業でも、今と遜色ないくらい精巧に作るのよ。隙間は金属の棒を入れて調整するから、均等になるはず。文字が太いのは、一つだけならまああり得るんだけど、ゼロが全部ってなると、元の母型が違うのかな…。ハンコ?にしては印刷の圧が均一だし…。」
 もともと弱りつつあった橙ちゃんの足取りがついに止まり、自転車を私に任せて首をぐるぐる回しながら名刺を眺めていた。
「ダメだわからん。」
 急に、手を下ろした橙ちゃんは自転車を受け取ると、名刺をこちらに寄越した。
「電話してみてよ。」
「え、今?」
「今してほしいけど、良きタイミングで。でもどうせ電話するんでしょ。」
「そうだけど。」
「この名刺の謎を解くのに協力すると思って。お願い。ね。私が代わりにしてもいいよ。」
 一応ため息はついたけど、これを持っているうちはいずれ連絡しなければならない事態に変わりは訪れない。
「わかった。電話する。ただし、結果は明日報告する。」
 一瞬喜んだ橙ちゃんの顔がすぐに項垂れる。人前で電話するのはもっと苦手なのだから、それだけは勘弁してほしい。
「了解。じゃあ明日、待ってるから。」
 親指を突き立てて自転車に跨った橙ちゃんは、颯爽に家路を走っていく。お返しに立てた自分の親指に、
「明日、バイト休むか?」
 と、聞いてみたけど返事はなかった。
 
「どうだった?名刺の人。」
 今日は早番だったので、橙ちゃんより先に上がる予定だったけど、見事に捕まった。
「ちゃんと電話したよ。」
「それで、どうだった?」
「いらないって言われた。」
「え。」
 橙ちゃんは、私が昨日電話口でしたのと同じ顔になった。
「『いらないです。』って。」
「なにそれ。」
「じゃあ、謎は謎のまま?」
「うーん、解きにいく、って言うのが正しいかな。」
「私、電話の時にどうしたらいいかわからなくて黙っちゃったの。そしたら、『やっぱり受け取ります。』って。」
「どっちなんだ。」
「気付いたんじゃない?名刺をいらないなんていう人がいないことに。」
「これから行くの?」
「そう。駅前で待ち合わせ。」
「ちょっと、女の子一人は危ない。」
「大丈夫だよ。昼間だし。」
「だって男の人でしょ。私もついてく。」
「男の人だけど、名刺渡すだけだし。橙ちゃんまだ終わらないでしょ。」
「いいや、良くない。ちょっと休憩がてらついてくわ。」
 言い終わる前にエプロンの紐を解き、橙ちゃんは通りに出てくる。こうなることを想定して、店長にはあらかじめ許可をとってあったらしい。抜け目ない。
「橙ちゃんが謎を知りたいだけでしょ。」
「なんだっていいでしょ。ほら、いくよ。約束何時?」
 駅へ向かって走り出す橙ちゃんの後を、慌てて追いかけていたら、待ち合わせのベンチに十分も早くついてしまった。
 
「わざわざすみません。」
 あの日と同じスーツ姿の彼は、薄い体をゆっくり何度か曲げて名刺を受け取った。頼りなげな若さが名刺の活字の大胆さと似つかなくて、より一層際立ってしまう。
「いえ、仕事の帰りなので。」
「仕事?」
「ああ、そこのパン屋の。美味しいんでよかったらいつか。」
「あ、ありがとうございます。」
 本来ならここでお別れだろうが、横に立つ橙ちゃんがそうはさせない。
「この名刺、どこで作られたんですか。」
「あの、この方は?」
「同じパン屋の仕事仲間で。文具に詳しい人で、名刺のことをちょっと聞いてもらってたんです。すみません、勝手に。」
「あ、いえ。」
「活版印刷ですか。」
 前のめりな橙ちゃんは質問を続け得る。
「あ、はい。」
「活版印刷、お好きなんですか。」
「いや、うちの会社、活版印刷の商品を取り扱っていて、特色を名刺にも反映させたいみたいで。」
 もともと力を込めないのか、彼の声にハリがない。橙ちゃんの質問責めに遭っているからかも知れないけれど。
「粋ですね。でも、活版にしてはちょっと煩雑というか、均一でない箇所がちらほら。」
 ああ、と声が漏れる彼は、恥ずかしそうに頭を掻いてその手で名刺を覆う。
「うち、入ったら最初に名刺を作るんです。自分たちで紙を決めて、好きな活字体を拾って、植字して、自分だけの名刺を作るっていう儀式みたいなものがあって。」
「新社会人の方?」
「あ、はい。そうです。」
「へえ、素敵ね。」
 橙ちゃんの目は、爛々と名刺を照らし、覗き込む。
「いや、俺本当に不器用で、同期で一番時間がかかったのに、文選は間違えるしで。小さすぎるんですよ、母型が。目だって疲れるし、そもそも向いてないんすよ、この仕事。」
 うまくいかないことがあったのか、彼はがっくり肩を落としているというのに、橙ちゃんはさらに追い打ちをかける。
「えええ!天職じゃない!何事も行き過ぎた時代に、技術を守る会社に入れるなんて、光栄なことなのに。」
「ごめんなさい。この子ほんとに文具オタクで、熱が入り過ぎてるというか、気持ちが急いてるだけなので。ほんと、気にしないでください。」
 止めに入るが、彼はなぜか、うんうんと顎を落とす。
「いや、ほんと。本来はこういう入りたい人が入るべきなんですよ。俺みたいなのじゃなくて。」
「是非ともそうしていただきたい。」
「橙ちゃん!」
 さすがに言い過ぎたと気づいたのか、橙さんは手で口を押さえて引っ込む。息が上がった彼も、大きく吐き出してから、顔を上げる。
「とにかく、ありがとうございました。すみません、わざわざ。」
「いえ。全然。」
「じゃあ、これで。」
 挨拶を終えた彼は、礼をすると振り向いて駅へ向かおうと足が出る。私たちと向かい合った時とは別人のような、しゃんと伸びた背広に、どうしても聞いてみたくなった。
「あの、ひとつだけお聞きしてもいいですか。」
「はい。」
 顔だけ振り返った彼は、また背中が丸くなる。
「あなたは、結構その、まっすぐな性格ですか?」
「え?」
 投げやりな顔が険しくなり、眼を細めるのを見て、慌てて付け加えた。
「あの、素直とか真面目とか、よくそうみられるけど、実はもっとこう、うちに秘める熱いものとか、こだわりを持っていたいっていう思いがあるのかなっていう勝手な憶測で…。」
 今度は体もこちらに向いて、彼が戻ってくる。
「どうしてわかるんすか。」
「名刺の字を見てて、なんとなくなんですけど…。」
 目を見開いた彼は、手のひらで包んだ名刺を取り出して見つめる。
「どの辺ですか。」
「えっと、紙と活字が喧嘩してるところ、ですかね。」
 差し出された名刺を指し示す。
「ゼロの活字体は、彫りが深いので、これなら凸凹な表面でも掠れていないのに、他の活字は彫りが浅いから、凸凹が均一に潰されてないんです。だから、所々掠れています。多分、用紙と活字体の相性は本来よくないんだと思います。でも、それは印刷物としての話で、純粋に好きなものを選んだ作り手の好みや性格が表れているのかなって…。」
 占い師になった気分でなんだか急に恥ずかしくなる。
「すみません、何が言いたいのか。ただ、この名刺を持っている方がどんな人なのかなと、少し考えていたので…。」
「あ、いえ。」
 名刺を返すと、彼はまた名刺を眺める。今度は活字の上を指でなぞりながら。
「社長が入社式で言ってたんです。名刺はその人の心を映すって。丁寧に扱えとか、持ち主の分身だとか、世間一般でも言いますけど、社長の言ってたことは、またちょっと違う意味ですね。」
 また彼は深々とお辞儀をする。
「ありがとうございます。活版印刷の名刺は、毎年作り替えるんです。だから、不恰好な名刺が早くなくなってほしくて、ついあげるとか言ってしまったんですけど、会えてよかったです。」
「そう、よかった。」
 晴れやかな彼と裏腹に、うまく伝えきれなかったもどかしさを隠したくて口角を上げた。口下手がいつになっても直らなくて困る。
 
 振り向きながら頭を何度も下げる彼に、手を振って見送っていると、
「時々思ってたけど。」
 と、橙ちゃんが口をひらく。
「糸佳《いとか》ってさ、目がいいよね。」
「え、何。活字の話?私、名前の空白のこと気づかなかったよ。」
「そういうのじゃなくて。」
「どういうこと?あ、それよりさっきの。本当言い方気をつけてよ。」
「ごめん。つい。」
 手を合わせ謝罪の意を示す橙ちゃんを引っ張って、元来た道を戻る。
「会社名わかったんだから、自力で入りなよ。」
「くうう。面接あるんだろうな。」
「あるだろうね。」
「無理だよ〜。」
「余計なこと言わなければ平気よ。」
「それができないの。」
「たった十数分じゃない。」
「糸佳〜、一緒に受けてよ〜。」
「やだよ。私はあのパン屋に骨を埋めるの。」
「バイトの分際で?」
「そういうとこ!」
 そのままパン屋に橙ちゃんを送り届けると、私は指先を擦り合わせ、まだ残っている名刺の表面を思い出す。ざらざらの中に潜む荒々しい活字は、知らない世界に飛び込む彼の姿そのものだったんだなと、改めて感じる。
「がんばろ。」
 バイト終わりに買ったパンを昼下がりの温もりもいっしょに抱えると、軽くなった足に任せて帰路についた。

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