【archive】日本バレエのパイオニア: 小牧正英の肖像
バレエと聞いて、おそらく多くの人がイメージされるもの、
それは「白鳥の湖」ではないだろうか。
小牧先生は、「白鳥の湖」の日本初演を手がけた方である。
それも1946年8月 戦後からたった1年、まだ焼け野原が残る東京で。
そのときのことを、後にこう残している。
日本のバレエの発展のため、そしてバレエという言葉すら禁じられた時代もその燈火を消すことなく、守りぬいてきた同士たちのために、如何なる困難に遭遇しようと私の精力の総てを惜しみなく使い果たす、そう決心した。
ー世界を席巻したバレエ・リュス
小牧先生のことをお話する上で、切り離せないもの。
それは バレエ・リュスだ。
芸術を愛する人ならば、ニジンスキー、ディアギレフといった名前をきっとどこかで耳にしているはずである。
太陽王ルイ14世の時代に宮廷舞踊として誕生したバレエは、フランスからロシアへ渡り、総合芸術として華開く。
白鳥の湖や、眠りの森の美女がうまれたのも、この頃だ。
1910年、そのロシアで育まれたバレエを、芸術の地、花の都パリへ運んだのが、ディアギレフ率いるバレエ団「バレエ・リュス」だ。
その初演は、パリの社交界を震撼させ、センセーショナルを巻き起こした。
古典バレエを上演するのではなく、最先端バレエ芸術をこだわり抜き、芸術や文化の流行の的となった。
音楽は、ストラヴィンスキー、エリック・サティ、舞台美術にはピカソ、マティス、ダリ、
衣装はココシャネル 脚本はジャンコクトー が手がけ、皆こぞってバレエリュスに参加した。
若きストラヴィンスキーの才能を見出したのも、ディアギレフである。
そのバレエリュスは1920年解散後、世界各地へと飛び火し、バレエは世界中へ広がっていく。
アメリカへバレエを運んだジョージ・バランシン、イギリスの英国バレエ団の創立メンバー アントン・ドーリン
フランスのパリ・オペラ座バレエ団の再建に尽力したセルジュ・リファールも、皆バレエリュスのメンバーだ。
その影響はアジアへも広がりをみせた。
亡命や革命の影響をうけ、上海へ渡り、上海バレエリュスが立ち上げる。
1940年、まだ、日本にバレエを知るものなどほとんどいない時代に、
上海バレエリュスで、ソリストとして活躍したのが、小牧正英なのだ。
帰国する1946年まで、バレエ・リュスの全作品に出演している。
ー
帰国後、自ら舞台に立ちながら、後進の指導にあたり、
日本のバレエ界を席巻した人々は、ほとんどか小牧先生の門下生である。
私をバレエの道へ導いてくれた 恩師 佐藤多賀子先生(福島すみれバレエ学園)も、その一人。
小牧先生の愛弟子として、福島でバレエ教室を創設。
福島で、白鳥の湖や、ジゼルを初演した際、振付・指導に当たったのも、小牧先生である。
私は、一度もお目にかかることはなかったが、その息吹は幼い頃からいつも感じていた。
公演の度に、小牧先生からの祝辞が届き、それを読むのが好きだった。
「観客へ超絶技巧を見せるのがバレエではない、心を通わせて踊ることこそがバレエである」
バレエとは何たるかを、恩師を通して学んだ。
数々の古典バレエ〜モダンバレエの演目がある中で、
幼い時から特に好きだったのが「レ・シルフィード」「薔薇の精」である。
どちらも小作品であるが、夢見ごごちな独特のポールドブラ(腕の動き)が幻想的で、
その練習風景を、鏡張りの大きな稽古場で、じっと見ているのが、好きだった。
それは、バレエリュスがパリで上演し、脚光を浴びた演目であり、
小牧先生が日本へ運んだ演目である。
きっと、小牧先生がいなければ、そして佐藤先生と出会っていなかければ、
私はこれほどまでに、バレエを愛することはなかっただろう。
きっと誰しも、一度も会ったことはないが、
運命や不思議な縁を感じる。そんな人がいるのではないだろうか。
大それた言い方に聞こえてしまうのは百も承知だが、
私にとって小牧先生は、そんな存在だ。
嬉しいことに、小牧先生は東北の生まれ(江刺のご出身)
戦前東北から、どのようにして、上海バレエリュスのソリストにまで上り詰めたのか、
私は不思議に思っていたが、本書にはその様子が詳細に書き記してあった。
アンナ・パブロワの来日公演(日本初のバレエ公演)を祖母とみてバレエに魅せられたこと
バレエを習うことはできなかったため、せめてものと母親が父親に内緒でロシア語を習わせてくれたこと
舞踊の道を諦められず、家出同然で上京し、資金調達に勤しみ、シベリア鉄道でパリを目指したこと
(その際、通行許可証を取得するのが困難だったため、貨物列車に乗り込むも、乗務員に見つかりハルビンで降ろされた)
ハルビンでロシア革命を逃れたダンサーが創設したバレエ学校に入学し、その後上海バレエリュスへ招致されたこと。
上海へ渡る際も、日本人であることがわかると連行される可能性があるため、タタール系ロシア人になりすまし、命からがら上海へ渡ったこと。(幼い頃からロシア語が話せたため、窮地に立つ場面はあるものの、難を逃れた)
生まれ育った場所を、そして祖国日本を発つことも、
今では考えられないほど、容易にはできない時代である。
しかし、本書を読んでいると、小牧先生の中ではその困難なことはあくまで通らなければいけない道であり、
バレエ、舞踊へのほとばしる情熱が、そのことを遥かに上回っているのだと、ひしひしと伝わってくる。
小牧先生が、時に命をかけ、学んだバレエは、冒頭にご紹介した白鳥の湖の初演を皮切りに、バレエブームを巻き起こすわけだが、
ここで、もう一つ、驚いたことがある。
初演の舞台美術を、エコール・ド・パリの代表画家 藤田嗣治が手がけているのである。
小牧先生が、美術をお願いできるのは彼しかいないと、懇願したとのこと。
バレエリュスの話を思い出していただければ、その理由はお分かりだろう。
バレエリュスの美術は、当時、藤田の同志であった、ピカソやダリが手がけている。
小牧先生は、本場の美術芸術を再現したかったのである。
そしてまた、藤田もバレエリュスに参画したいと切に願っており、一つ返事で、快諾したのだ。
フランスを愛する人ならば、このエピソードは胸が高鳴るのではないだろうか。
(昨年東京シティバレエ団にて、藤田の美術を忠実に再現した白鳥の湖が上演され、話題となった。再演を願うところだ)
また機会をいただけたら、白鳥の湖初演から、日本のバレエへ尽力したそのプロフェッショナリズムについてお伝えしたいと思う。
この夏の間、日本では来日公演が盛んに行われている。
小牧先生が魅せられたバレエの世界に興味を持っていただけたら、ぜひ足を運んで欲しい。
最後に、本書を贈って下さった、そしてバレエの道へ導いて下さった、恩師 佐藤多賀子先生へ心より感謝申し上げます。
*本記事は2019.8 日仏協会会報に寄稿したものです
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