12月4日

今朝は布団の中で手足がじんじんと浮腫んでいるのを感じながら、どうしても起き上がれずに、猫のタンちゃんを布団に招き入れてくっついてみたり、匂いを嗅いでみたりしながら、だらだらと過ごしていた。

10時頃にやっと身体を起こし、シャワーを浴びて、朗読講座に向かった。今年初めて、ダッフルコートを着る。身体よりも少し大きめなこのコートに包まれた身体は、生理のとき特有の、微熱でふわふわとした感じだった。

今日は身体の内側に意識が向いていて、分厚いダッフルコートはそんな身体を包むのに合っていた。

朗読講座でも、今日は思ったように声が出ない。ちょうど竹内敏治さんの本を読んでいたので、伝わる声、というのを実践してみたかったのだけれど、身体がそれを拒んでいる。なんだか自分が弱々しく感じられる。

講座が終わってから、図書館の中をふらふらと歩き、気になっていた本を抱えて、一人がけソファの並んだ静かな部屋に入った。

ダウンライトの静寂の部屋で、本は開いたがまったく頭に入ってこない。椅子に腰掛けると眠気に抗えなくなり、目を瞑った。

ソファのような場所にもたれて目を瞑る時、私はいつも何かに身体全体をやさしく包んでほしい気分になる。

誰かが、いま、抱きしめてくれたらと思う。いつもそれが叶わずに何かたださみしい気持ちだけが残る。今日は、淡い色の柔らかく大きな布で身体全体を包まれるイメージを持ってみた。そうやって自分自身を癒してみようとすること。

図書館で手にしたフライヤーに、ちょうど今夜近くで詩劇があるという。電車に乗る直前、いま行けば間に合うことに気がつき、改札に引き返した。

その演目は、中国の北京にあるカンパニーによるもので、ダゴールの「春」という詩を4人の演者が朗読した。中国語の新鮮なリズムに心地よさがあった。スクリーンで同時に以前上映されたものと日本語と英語の字幕が流れた。

作品の後に監督への質問を求められ、よくわからず直感的にここに来たこと、中国語が心地よく、タゴールの詩も気になったことを伝えた。監督は、目がきれいだ、と言った。きれいな目で見れば世界は美しく見える、と。そういう目を持って世界を見ることの大切さを話されていた。

そのあと、一人の男性がそのような目を養うためにはアート作品をみるべきでしょうか、と質問した。

私は、空、風、水、道端の草花、私たちの身体や動物、そのような自然の中にだけ、本当の美しさがあると思う。意図せずに存在すること。

同時に、美を表現しようとするもの、人の営みには、生きるエネルギーを与えるような何かがあると思う。

私は、見ず知らずの人たちのなかで、知らない言葉のなかで、普段の生活の中のわたしの役割から離れて、ひとり、ただの自分に戻っていく感覚があった。

皆で写真を撮り、監督と握手をし、演出家の女の子とハグをして、ふわふわと心許なかった身体が、帰り道にはなんだか少し元気が出てきた。空間や人の発するものに、マッサージされたような感覚。

意味や内容が重要なのではなく、そのものが持つ響きを体感することが大切だと改めて感じさせてくれた。私自身も、私という存在を通して世界をマッサージしていきたい。

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