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現象学について 「目的」
1.導入
世の中には疑り深い人々がいて、とにかくあらゆることを疑ってかかり、世界は存在しないだとか、因果関係なるものは存在しないだとか言っていたり(懐疑論者)、この世界の物事は結局その人の価値観やものの見方によってさまざまで絶対・普遍なんてものはないんだよという人々(相対主義者)がいます。彼らの言うことは確かにその通りだと思います。
が、もしそうだとするならばどうして数学や物理学、化学といった自然科学が世界中どこででも通用するんだろう?
人によって見えている世界が異なるはずなのにどうして私たちは他者と同じ世界に生きていると”思っているのか”?
この謎を解こうとしたのがフッサールという哲学者が創始した現象学というものでした。
2.これ以上疑えないもの
近代哲学の祖と呼ばれるデカルトはこれ以上疑うことのできない絶対確実なところから学問を積み上げて行こうとしました。彼は、あらゆるものを疑って否定していき、これ以上否定できないものとして物事を疑っている私は否定できないということを発見しました。つまり、「我思う、故に我あり」です。(方法的懐疑)
しかし、先に述べたような相対主義者や懐疑論者を十分に説得することはできませんでした。
哲学者のイマヌエル・カントは人間の認識能力には限界があるので、我々が「物自体」(=事物の客観的・普遍的な様態)を認識することは不可能であるとしました。
つまり、個人の主観では「客観」を捉えることはできないということです。
(「主観」ー「客観」の不一致)
私たちは「客観」的なものの仮の像を認識しているにすぎないことになります。
これは、ヨーロッパの哲学で長く議論されてきた認識論の最大の難問です。フッサールはこの問題を解決するために、デカルト的な懐疑をさらに徹底しました。
まず、「我思う、故に我あり」の「我」は本当にもう疑えないだろうか?「我」というものは曖昧なので疑えないと断言はできそうにない。「我」を取って、「思う、故にあり」ならどうだろうか?
「思う」から「ある」と言えるのはどうしてなのか?「思う」と「あり」の間の繋がりもまた曖昧なのでこれがこれ以上疑えないものとは言えそうにない。
そこで、疑えないものとして残ったのは「思う」ということでした。
つまり、思っていることを疑うこと・思わないことはできない、何故なら既に思ってしまっているからということです。
3.現象学の根本動機
フッサールは、これ以上疑えないものとして「思う」ということにたどり着いた結果、人間のものの見方の決定的な変更を行いました。
それは、私たちが存在すると素朴に”思っている”この世界やその中に存在する事物などは、全て私の意識の中において”思われているもの”でしかないということ、私たちは世界を存在すると”思っている”に過ぎないということ。つまり、全ては主観であるという見方です。
もっと正確に言えば、全ての事物は私の意識の内側で構成されたものであり、その内的意識において構成されたものを”存在する”と確信していることによって事物が存在すると”思われている”訳です。
具体例を挙げると、私たちがりんごを見るとき、
ふつうの自然な見方では、まずりんごというものがあって、そこからりんごの「赤い」や「丸い」、「美味しそう」という特徴が見えると”思われる”が、
上の見方の場合、つまり現象学的見方の場合、「赤い」や「丸い」、「美味しそう」といったことが意識に与えられることで、『これはりんごだ!』というりんごの存在に対する確信が生まれるということです。
この方法、現象学的見方によってフッサールは、それまでの認識問題を根本的に破棄することになりました。
何故なら、人間の認識が「物自体」や「客観」、「普遍」に到達するか否かということはもはや問題ではなく、
私たちの意識に与えられる様々なものが、どうして”存在する”と確信されているのか、私たちにそのように”思わせる”のは一体どうしてなのかということが現象学における問題となったからです。
ここにおいて人類は、人間が社会や文化を形成して生きることの意味を”普遍的”なあり方で理解する方法を手に入れたのです。
生活とは、たえず〈世界確信のうちに生きる〉ということである。