それを食べるのが侍の話
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ぎんぎん、こんにちは、ノウト!
やせ我慢できたから涙ができた、という話を前回させていただきました。
「武士は食わねど高楊枝」ということわざがあります、お昼ごはんや晩ごはんなどを食べられずにいてお腹が減って空いていても、さも、食べたかのように振る舞うさまを例えたことわざだで、そのさまが武士の美徳だったりカッコよさだと言われています。なんて話はしておりませんが、前回のお話もお読みいただければ幸いです。
つまりは、やせ我慢がカッコのいいことだと言うことです。そんなことわざが日本にはありますから、「やせ我慢をしてカッコわるいよ」ってことにはあまりなりません。
それがやせ我慢だとわかったとしても、「我慢なんてせずに食べなよ」なんてことを促すのは、野暮というモノです。しかし、やせ我慢をしていることがバレてしまうと粋ではなくなってしまいますから、バレないようにしなければなりません。
近頃では、「食べなよ」と促さないと逆に野暮っぽくなっているのもいなめないですが、ボクとしては相手の気持ちを大切にしたいと思ったりします。
やせ我慢ではなくてホントに遠慮をして我慢しているだけならば、ご遠慮なく食べて欲しいモノです。遠慮しているのもやせ我慢なのかもしれませんが、遠慮が美徳かは、ちょっと違うような気もします。似ていますが少しニュアンスが違います。
遠慮の場合は、ある程度は満足していてほんの少しの部分だけ我慢をしている感じです。やせ我慢が100の我慢ならば、遠慮は20くらいでしょうか。
関西ではいや大阪ではいやいやボクの周りでは、大皿に餃子や唐揚などを盛られたモノを5人くらいでシェアして食べているときに、最後のひとつなって誰もが箸を付けなくなる手を付けなくなる現象があった場面のこの最後のひとつを「遠慮のかたまり」なんて表現されたりします。
今までは好きなように食べていたが、最後のひとつになったときにみんながみんなホントは食べたいけれど遠慮をして手も箸もでない状態を上手くに表しています。
遠慮なくガツガツいきそうな関西人ですが、そこは遠慮をします。本当は「あいつ最後のいっこ食べたやん、俺も食べたかったのに」と思われたくないかもしれませんが、みんながみんな遠慮します。長年親しくしていると、自分が食べるのではなく、誰かに「最後のいっこ食べて」なんて強制的に指名したり候補者を募ったりして、誰も手を付けない状態を回避するようになってきたりきなかったりします。
もっと親しい仲だと、それは誰が食べるのか食事が始まったときから決まっていたりします。
暗黙の了解ですが、それを食べるのが侍。
何だか暖かく春の陽気になった気もしますがそんなことはお構いなしに店内が暖房がガンガンで暑いので、このあたりで。
ありがとうございます。
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