あー(もじのほう)|文学フリマ東京39
2024年春、文学フリマに出ることにした私の、本を作ることにまつわる雑記。
まちで過ごす。暮らす。訪れる。そんな日常の中で感じた手触りを残しておく。
2006年に世界一周したときの記憶。
道端に落ちている、突拍子もないもの。私はそれとの出会いが、たまらなく好きだ。別に拾うわけではない。もちろん、誰かが困っていそうな落とし物は届けるが、それ以外のものはただ眺め、これがここにある理由について、想像を巡らせる。 誰が落としたのか、どのように落としたのか、なぜ落としたのか。考えていると、足元にあるその落とし物がとても愛おしいものに思えてくる。私はこの工程が、好きなのだ。 道端には、本当にいろいろなものが落ちている。その一期一会と、そこから巡る物語を、記していこうと思う。
文庫本『南の島、場末のスナックと、透明の海』に収録されている短編2話。 ーーー 南の島に農業をしに行ったら、なぜかスナックで働くことになった。 半日フェリーで揺られた先に待っていたのは、私の当たり前を全てぶち壊す日々だった。 スナックのママを筆頭に、“チーママ”、“横浜”、“三線”など個性あふれるメンバーと共に始まるスナックライフ。その一方で昼間はサトウキビの収穫に勤しむ。そんな私たちを支えてくれたのは、親方だった。 夜、ドレスでカウンターに立つ女たちは、昼は茂みで用を足す。 美しい南の島で起きた、あったような無かったような出来事。 ーーー 南の島に飽き足らず、次は北の大地へと旅立った。 そこでは初めて会った6人とひとつ屋根の下で過ごし、技能実習生やパートさん、そして農家を経営する家族たちと日々を共にする。 家族とは何なのだろうか?を考えた日々の記録。
ひとり南の島の空港に降り立った。機体と空港をつなぐ、あの蛇の腹みたいなもので覆われた通路に出たら、湿った空気が肌を包んだ。湿気。服を一枚脱いで、腹に結び付けた。荷物は、黒々と光った安っぽいビニールでできた大きなバッグだけ。タイヤが付いたキャリーは可動性が悪くて好きじゃない。重いバックは肩に食い込み、汗ばんだ皮膚に吸い付く。 唯一都市部に走るモノレールで、予約した宿に移動する。今日は港の近くで一泊する予定だ。インターネットで予約したから、部屋と外観の写真しか見ていない。地図を
年末にかけて仕事と体調が爆発し低浮上でした。 ようやっと新刊が手元に届きました。12/1 文学フリマ東京39に持って行きますのお知らせです。 12/1 文学フリマ東京39@東京ビックサイト 出店します! うおー年末が近づいてきている! 最近は仕事の取材や執筆がぎゅっとして 締め切りに追われる日々でした。 そうこうしている間に文学フリマの日にちが近づいてきました。 今回も春に引き続き、出店を予定しています。 ぜひ気軽に遊びにきてくださいませ。 無事に新刊も届きました……
|誰の役にも立たない、2006年に世界一周をしたときの記憶| そもそもこの世界一周は船を使った旅だった。某NGOが運営している100日間ほどで世界をぐるりと回る客船ツアー。居酒屋とかによく貼ってある、あのポスターを見たことがある人も多いのではないだろうか。 だから基本的には寄港地への滞在1、2日程度。そこで自由行動をすることもできるし、追加でツアーを取ることもできる。もちろんツアーには追加料金がかかるので、私のような学生には取れるものも限られてくる。 2つ目の寄港地のシン
|誰の役にも立たない、2006年に世界一周をしたときの記憶| ベトナム編①はこちらから↓ ーーー 市場を後にした私たちは、再び原付に二人乗りをして街中を走った。過ぎ去っていく景色をトゥエットの頭ごしに見る。少し顔が砂っぽい。 地元でも人気だというレストランに連れて行ってもらい、そこで昼食を取ることになった。間口はそこまで広くないが、奥行きが広い建物が多く並んでいて、このレストランも同じような形をしていた。建物の前側部分がオープンスペースとなっており、そこにプラスチック
自営業を10年ほど続けている。細々と続けてきて実感することは、自分が面白いと思っていないものをやることはとてつもない苦痛だということ。 これを売らなきゃとか、うけるものを作ろうとか、いいねをもらおうとか、そのような目的を一旦持ってしまうと、作りたいものが本当に作りたいものでなくなってしまう。 そうすると、楽しかったことがいつの間にか全く楽しくなくなって、作り出すものの品質もどんどん下がっていくのだ。 最初の数年は、”売れる”ためにがんばっていたこともあった。けれど、いかん
|誰の役にも立たない、2006年に世界一周をしたときの記憶| 海外に行ったことがない私が、2005年の大晦日に思い立ち、そのおよそ半年後の2006年7月から世界一周をすることになった。 私はいつだって思いつきの人間だが、それが実態を伴い周りを巻き込み始めたのはこの頃からだったと思う。それはもちろん良い方向へも悪い方向へもいくことはあるのだが、私にとってこの世界一周は、人生の中でもだいぶ大きな意味合いを持っている。このとき私は大学3年生。そのタイミングで行けたことにも、意味
車運転してんだから、車運転してんだろ。 それは確かに正しいのだけれど。 もう少し砕いて言えば、 私たちは車を運転していること“だけ”を してはいないのではないか。 車運転してる時、みんなどうしてるんですか? 今日は仕事中、手を動かしながら そんな話を仲間としていた。 いやいや集中しろよと まずはみんなで突っ込んだのだけれども 現にその話をしている時も、 私たちは喋りながらもしっかり仕事をしていた。 だから、前提として もちろん運転に対する危機管理はしていて その上で
気づけば夏も終わりかけ。 運営から出店料振り込みの連絡も来た。 文学フリマ東京39。 今年を締めくくりになるであろうイベントは きっとあっという間にやってくる。 あれ、何持っていく? そうだ、また新しく本を作ろうと 今また考え始めているところ。 ーー 前回はたくさんの人に立ち寄っていただけて 想定よりも多くの本を売ることができた。 (ふりかえりはこちら↓) その前段の本を作る、という作業も なんとも楽しくて、 一言で言えば、もう、 やみつきになってしまった。
晴れた空の下。 土を混ぜながら、どうすれば土に還れるか、考え込んだ。 ーーー 7年前、生まれ育った東京から、長野に移住した。山が美しく、田んぼが広がる。豊かな自然を見ながら過ごしていたら、すべてが時間をかけて循環していることに気づいた。 緑が茂り、実がなり、虫や鳥がそれを食べ、落ちた実やフンが土を豊かにする。季節が巡れば、再び緑が茂っていくけれど、そこに、私はどのように関わっているだろう? 残念ながら、その循環に、私はいなかった。 ーーー きっかけは、ゴミだった。
初めて訪れた時から、ここに住みたい、とどうにも思ってしまう"まち"がある。今まで生きてきた中でいくつかあるが、私にとっての初めてのまちが、高円寺だった。 当時の私のクローゼットには古着ばかりが入っていて、雑多な雰囲気が大好きだったし、商店街もたくさんあって、どんな風貌であろうが誰も気に留めない(実際にいろいろな風貌をした人がまちを闊歩している)そのまちの雰囲気が、一度訪れただけで気に入ってしまったのだ。 次にパートナー(今の夫である)と一緒に高円寺に訪れた時には、吸い込ま
車を運転していると高い頻度で出くわすのが、車道に落ちた片方の靴だ。 殆どは運動靴で、少し汚れている。仕事終わりに靴を脱ぎ、サンダルなどに履き替えた後、トラックの荷台などに置いてあったのが落ちてしまうのだろうか。落ちる現場を見たことがないので想像の域を出ないが、勝手そう思っている。 先日、交通量の多い国道を走っていたら、いつものように汚れた靴が落ちていた。ああ、また靴か。と、思いそのまま走ると、数メートル先にもう片方の同じ靴が落ちている。お、今日は両方揃っているパターンか、と
先日、長野県は佐久穂町にあるpieniにて はじめての個展を開催しました。 そんなこんなですっかり浮上できずにおりましたが、 少し落ち着いたのでまとめつつ、近況報告です。 個展っていうとなんかすごい大袈裟感 まず、こちらのアカウントでは”もじのほう”とありまして 一方で”えのほう”の活動もしております。 こちらは主にTwitter(Xとはかたくなに言わない)で展開していますが リアルでの展示会は今回が初めてです。 https://x.com/a_a_a_illust
スーパーで買い物をした後、レジから少し離れた机で、会計済みのカゴからマイバックなどに入れ替える。 その時に買ったものを机に置き忘れてしまい、家に帰り冷蔵庫に詰める段になって初めて気づき、ショックを受ける。 私は何度かこれをやったことがあって、その度にとても悔しい思いをする。さりとて、スーパーに戻る元気はない。仕事の後ならなおさらだ。 だから私は、道端にしゃけの切り身が落ちていたのを見た時、とても同情してしまったのだ。ああ、この人の今日の晩御飯が落ちていると思ったからだ。
20歳の時、初めて日本を飛び出しました。20カ国以上を回り、私はその時はじめて“旅”をしたのだと思います。 旅立つ前。世界に行けば、きっとそこには特別ななにかがあって、それを見たら、私はなにか変わるのだろうと思っていました。 けれど、そんなものはありませんでした。 そこにあったのは、ひたすら、繰り返す日常でした。旅の最中にも、私たちは毎日朝起きて、その日をどう過ごすのかを自分で選び取っていく必要があるのです。旅ではその選択が、日常から少しばかり増えます。だから、なにか違
なぜ私は、道端に落ちている突拍子もないものが気になるのだろう。そう考えた時に、ふと思い浮かんだのが、幼稚園の頃の思い出だった。言うなれば、マイファースト違和感。こんなところにこんなものが落ちているなんて、おかしい。そのように幼稚園生でさえもが思ったものが、あったのだ。おそらくそれが、私の落とし物に対しての興味の原点になっているに違いない。 ーーー 家からほど近い、歩いて15分程の所にある幼稚園に通っていた。私は母が運転する自転車の後ろに乗って通っていたが、バス通園の子ども
歩くのが好きだ。歩いている時は、大抵足元を見ている。一歩一歩順番に出てくる自分の足を眺めながら、この体が少しずつ道路を進んでいくさまを感じるのは、おもしろい。足ってすごい。自然、そう思う。 足元を見ていると、それ以外にも様々な副産物がある。例えば、季節ごとに草花が変化していくことに気づく。草や花は定期的に入れ替わり、それを見るたびに今が一年のどのあたりなのかを知ることができるし、何より草花の姿は何とも神秘的である。なぜ神様はこんな形にこの草花を作ったのだろう?と、つい考えて