世界を旅して見つけたもの | 世界一周の記憶
20歳の時、初めて日本を飛び出しました。20カ国以上を回り、私はその時はじめて“旅”をしたのだと思います。
旅立つ前。世界に行けば、きっとそこには特別ななにかがあって、それを見たら、私はなにか変わるのだろうと思っていました。
けれど、そんなものはありませんでした。
そこにあったのは、ひたすら、繰り返す日常でした。旅の最中にも、私たちは毎日朝起きて、その日をどう過ごすのかを自分で選び取っていく必要があるのです。旅ではその選択が、日常から少しばかり増えます。だから、なにか違うように感じるのかもしれません。(でも、本来は?私たちはどうやって日々を過ごしたっていいはずです。)
旅の中で、こころ震える素敵な景色もたくさんありました。吐き気がするくらいひどい景色もたくさんありました。でも、どんな景色の中にも、人は生きていて、日々を過ごしていました。私たちには、そうするしかないのです。
ある日突然世界は変わらないし、違う人生を送れるわけではありません。よくもわるくも、私たちは私たちの日々に向き合い、ひとつひとつを根気よく繰り返すしかないのです。
旅は日常から切り離されたものではないと、その時感じたのです。でも、それは、私を落胆させるものではありません。私の知らなかった、または気づいていなかった日常の、なんて豊かで多様なことか。いろいろな人たちの日々を過ごす様子を見て、私はどんなふうにだって生きることができるんだ、と思ったのでした。
そして、そう理解してからは、“旅”が必ずしも距離を伴わなくたってよいのだとも気づきました。遠くに行けば行くほど、何か特別感が増すような気がしていましたが、そういうわけではないのです。
なぜなら、日常そのものも旅なのだし、旅と日常は、完全に分けられるものではないからです。そのふたつは光と影のように、相反するようで、一体のものなのです。どこにいても、そこに何を見るか。それが重要なのです。
しかしながら、ふたつの間には、なにかやはり緩衝地帯のようなものがあります。ふわりと漂うそれを、私は掴みたいと思うのですが、また掴みきれていません。
だからこうやって、文を書いたり絵を描いたりするのです。少しでもそれを、その感触を残しておきたいから…。そうすることで、その曖昧なものを、私ははっきりとさせたいのかもしれません。
ともあれ、記憶というのは本当に自分勝手です。残せるうちに、私はそれを焼き付けておきたいと思います。