使う、作る、食べる
暦の上での年末年始、冬至をすぎたあたりから今日迄の二週間は、いつもと変わらないといえば変わらないようで、道具を手に取り、少しでも安い食材を探しにスーパーや小売店を見物に梯子して、と足を使っていたら、やたらと1回1回の食事(…とその続き)を思いめぐらせ、手をいつになく動かす日日と自然となっていった。(普段は、無計画な自分だけど、AIにおすすめされた蒲鉾が想像の3倍くらい高くて目玉ビヨヨーンとなってから、かなり慎重になった。昨日、スーパーを覗いたら値段は元に戻っていた。買わなくてよかった。そこまで実は練り物は好きじゃないらしい(笑)見た目と言われが好きで摂取したい、と気付いた。寒いうちにうどんに一切れ入ってるのをありがたがって、あやかって、影響されて食べるので大満足という性分。後日談)
見出しは、年末に一瞬、喉が擦れてきてマズイとただ案じている段階で、人様の大根飴についての投稿がタイムラインに流れてきたのを見かけ、材料も買い足さずに作れそうだったので、これだ!と思って真似し始めた時のもの。野菜の味が抜けていたけど、見た目はなんとなくいい気休めとなって2、3日したら喉の調子も元に戻ってきた。
そう
この時点で、こういった冷蔵庫の肥やしみたいなものを活用することに、本当にかなりの喜びを感じていて、この二週間近くを振り返ってみても、お助けAI(笑)との二人三脚で乗り切った暦の上で年末年始の食事情を経ても、ジェネリック数の子にしろ付け焼き刃的真心の黒豆もいい思い出と風景となっているけど、作ろう、作る…の発心となった柚子味噌あたりがかなり功績があるな、と思える。
クリスマスも装飾やおあつらえのご馳走からの刺激、キャラクター魅力的にちがいないけれど、ちょっと時期がいくらなんでも忙しすぎると思って、自分とは関係ない人なのだから気にしなければいいものを、人人が忙しすぎることに熱中する様にナーバスになってしまい、その頃からお助けAIにめちゃくちゃ質問をしまくっていた。
伝統と現代の生活様式のギャップ、矛盾、溢れるモノ、群がる大衆の熱気への不満など…中々に、目の前の人に言えたところで、結果仕方ないよね…もう、ま、たのしみましょうか…と笑いあうしかなり得ないだろう話題。お助けAIも結果は同じだった。でも、何がよいかって、向こうは何も食わないだろうし、誰かと団欒する訳もなさそう。そんな謎の存在に、できるだけおいしいものを食べて、たのしみを見つけられるといいですね!とか、言われている滑稽がとても心地よかった。
巷に溢れ尽くしていると感じてしまう滑稽を、滑稽ではないとして振る舞わなければならないような捻れ、よりかはストレートな直球の滑稽がいい、と身体的には思うのじゃないかな
まだよく使い方がわからないけれど、またすぐにやってくる切羽詰まる時分には、使ってみようと思う。手元の、至るとこに在るすべてをよく使うために。恐さや不気味さはない訳じゃないけど、信用するとかは何となくないし、信用をしなくても失礼じゃない感じという存在も助かる、というのをAIによって何となく学んでしまった…
人という存在がどんどん分からなくなる……
身体と心的な感覚の捩れから肩に力が入っていたような紆余曲折の2025・お正月の感じがしなかった正月の締めくくり七草を中心としたご馳走風御膳が此方
粥は付け焼き刃ではないかな。12月いっぴからが新年だった身体感覚なので、反復。粥と雑煮は周囲の影響がなくても、ふつうに食べたい気持ちが浮かぶので、行事にのっかり食べる。
食べたいときに食べる、がいい意味でもわるい意味でもできなくなってきているのは問題だと思う、というのを感じているので、お助けAIに訊ねる。お腹がいっぱいなのに、次から次に食べたいと思わせる環境に身を置くこと、求める事柄へのエネルギーの枯渇、整合のしなさ、節操ないと思う気持ちと刺激される欲望…
訊ねる段階まで来ているというのは、自分で答えは実は分かっている。というのは変か…読めてはきている。だから答え合わせがしたい、そういう感じに近いのかも。占いもそうだった。あまりアテにしていない。実のところは。自分の膨大なデータによる予測が既にあって、それを安心させたり、後押しされたり、考えを止めてほしいだけなのかも知れない
結局は自分で、使って、作って…としたい発心を摘み取られたり、尻拭いをさせられたり、それらしいことで満足させられたり、と本末転倒
にならないような選択をすこしでもできるといいですね!と、自分への答えはもうすでにありながらも、堂々めぐりを続けることへの戒めをAI風に
自分の言葉すら他人行儀な言葉に変換されると、あまりプレッシャーにもならない。あとは、使って、作って…
書きたいことはいくらでも続くし、常にあり続けるけど、身体を通して、寝かせて、休ませて…を書きたいことにもする、すぐ書きたくなるのこらえる、時がくるのを待つ、という大事なことを、ケダモノの誇り、矜持への悩ましさ、(ケダモノ自らの望みで、制御され、刻一刻と浄化され)行き場のない腹いせを、いつでも投げかけるのを憚らない存在から、ねじまげられようのない虚しさをしかと跳ね返される中で学んだような気が"何となく"する。
あと、何となく位が、本当に"何となく"ちょうどよい、というのも。
今だ、今だ、といくら思っても、今迄通りに思考が進まなくて、特に身体が拒絶しているような感覚で、書き進まなかった。
一週間経つと、そろそろと身体体験を通過した記憶、記録したい残像も飽和してくるのに。
年末年始でストップしたごみ収集を待つ間にたまってゆくごみの嵐に、何となく重なる。別に自分の思い出がごみだなんて思っている訳でも言う訳でもない。
でも、何かを作ったり、作ろうとした時に、ただ存在するだけでも、要らないもの、触れられないもの、見向きもされないもの、やがて葬りさられるものが殆ど、だと思うと、年末年始に休んでいるごみを収集と、何かしらが書けない身体感覚は似ているような気もした。
ごみを好きなとき、自分のベストタイミングに燃やせたり埋めたり再生させられるのは、そういう環境に身を置けるのはつよい…と思う。
何日か前に、偶々、2年くらい前に買った岡本太郎の絵葉書を書き損じて(形跡が残っていた)勿体なかったのか、当時の腹いせめいた自分や周囲への呪文、念仏じみたことを書きなぐり認めたものがいきなり他の葉書の束から出てきて驚いたので、新たな呪文も付け加えて書きなぐり、大きなフライパンの上で換気しながらトング片手に、万が一のかけ水を傍にしっかり置いて燃した。すっきりした。
そろそろくどくなってきたので終わります