娘の敬称:りくとんちの家族エッセイ
こんにちは、PSWライターのりくとんです。今日は、よく聞かれるので娘の呼び方について取り上げたいなと思います。
「カナちゃん」と呼びたくなかった
うちの娘は、「カナさん」と呼ばれています。娘の名前は「カナコ」。おじいちゃん、おばあちゃん、保育園の先生、私の友達、みんなからは大体「カナちゃん」と呼ばれていますが、私と主人は彼女のことを「カナさん」と呼んでいます。
理由は、いつか一人前の大人として扱う相手を『ちゃん』づけで呼ぶことが嫌だったから。あくまで私の主観の話だったので、呼び方については主人に相談しました。主人は「そういう考え方もあるね」と支持してくれ、結果私たちは娘を『カナさん』と呼んで育てることにしたのです。
『◯◯ちゃん』と呼べない理由
私が娘のことを『◯◯ちゃん』と呼べないのは、私が私の母から「1人の大人」として扱われてきたことに由来します。(この辺はマガジン「人の形を手に入れるまで」で読んでみてください)
母は普段、私のことを「りく」と呼びました。しかし、母が私に大人の権力を振るう時、母は私を「りくちゃん」と呼びました。子供心に、「これは子供の一存で決められないものなのだ」と理解できたエピソードでした。
同じように、父母の意に沿わない提案を祖父母が行うとき、祖父母は父母のことを「◯◯ちゃん」と呼んでいました。『あなたたちのためを思って言ってるのよ、大人の言うことは聞くものよ』…このように、相手の異論を認めたくない時、相手の考えを納めさせようとする時に使う敬称、それが私にとっての「◯◯ちゃん」だったのです。
『ちゃん』に感じる可愛さと庇護欲求
『カナちゃん』。すごく可愛い響きだなと思います。娘が他の人からそう呼ばれること、これが嫌ということはもちろんありません。ただ同じように私の口から発するには抵抗がある、それだけのことなのです。
おそらく私は『◯◯ちゃん』という敬称に、『責任の所在』がないと思っているのでしょう。可愛いから、守ってあげたいから、危ないことはさせたくない。やったことの責任を代わりに取ってあげたい。そんなメッセージを勝手に受け取っているのです。
責任の所在は各人が持つべき
どんなに小さくても、物心がついているなら責任の所在は彼女にあると私は考えています。(そのウェイト配分…本人:親をどう振り分けるかはケースによりますが、本人が0ということはありませんよね)
自分がこんなことをしてしまった。そして怒られた。『あぁ、悪いことをした、恥ずかしいところを見られた、もう止めよう…』そう思うためには、自分のしたことは自分に責任があると感じなければいけません。
全ての責任を親が持つということは、『怒られたのは悪いことを教えてくれなかった親のせい』であるということ。そして最後には、『私が泣かされたのは親が庇ってくれなかったからだ』と考えさせるに至るのではないか…私にはそう思えてしまうのです。
リスクを知る、責任を負う
時間に余裕がある時に限りますが、娘のやりたいことに、私は原則許可を出します。もちろん、事前に十分なリスク説明をしたうえで。
例えば、以前パンを一緒に作りたいと言った時の話。エプロンはつけたものの、髪を結びたくないと話した娘。この時は、コネ機のリスクを知ってもらうために髪の長い編みぐるみに犠牲になってもらいました。(こののちに救出しています)その後、娘にはリスクを知った上でなら好きにしていいよと話しました。『髪を結びたくない?いいよ、でももしかしたら髪の毛がちぎれてなくなるかもしれない。それは承知ね?』という具合。
頭ごなしに『ダメよ』と言っても、まだ小さいので想像力にも想像のためのストックにも限界があります。リスク説明は視覚化を意識し、自分で『髪を結ぶ』選択をしたと納得できるよう、判断材料を提供するようにしています。
まとめ:娘と私は違う生き物
私と主人が違う人間のように、私と娘も違う人間です。お互いがお互いにやりたいことがあり、お互いの思考、お互いの都合の中で生きています。
私に「やらなくちゃいけないこと」があるように、娘にも「今言わなきゃいけないこと」があるかもしれない。私が気をつけていることは、彼女も『彼女なりの都合』を持った1人であること忘れないようにすること。
よもやすると忘れそうになるソレを、忘れないよう自戒を込め、私は今日も彼女に「カナさん」と呼びかけるのです。