23:「人の形」を手に入れるまで
マガジン「人の形を手に入れるまで」の23話目、最終話です。まだ前書きを読んでいない方は、こちらからご覧ください。
私は、隣県の精神科クリニックに就職し、ソーシャルワーカーとして少しずつ社会人になっていった。生活環境が一変したことで、はじめは風邪をひきやすく熱もよく出した。根気よく教育しれくれた当時の上司には本当に頭が上がらない。
それでも、職場で行われる薬剤講習や精神保健分野の講習会などには全て参加したし、おかげさまで病気の理解、翻って自己理解、「人の心の動き」の理解を深めていくことができたと思う。(このへんはまた別にコラムで書いていきたい)もしこの仕事に就かなければ、私の解離は未だただの病状であって、ここまで自分にとって都合の良い「思考パートナー」には成り得なかっただろう。
そうしてソーシャルワーカーとして7年の月日が流れる頃、私は結婚し、人の親になった。その時だった、私がきちんと自分に「人の形」を定義したのは。
当たり前の話だが、赤ん坊だった娘ははじめ自分と私の境目を見つけることができていなかった。私が離れれば泣き、私が思い通りにならなければ泣き、お腹がすけば泣いて、自分の欲求がすぐに満たされなければまた泣いた。でも子供はそうやって、自分の思考を母が読み取っているわけでないと知り、自分と母親が別の生き物であることを悟る。そうして徐々に娘は自分を一人の人間と認識し、同時に私も「私」の姿を定義づけられることになった。その時に、私は「私の形を固めなければならないのだ」と思えたのだ。
それまでの私は、相手に合わせ、その場その場の最適行動をとっていた。それは母との分離を終えた後も続いていた行動パターン。職場の飲み会、勉強会、雑談のような会議にも全て欠かさず参加し、多少強引な出張にも都合をつけて出かけていた。(どれくらい強引かといえば、パスポートもないのに来月1週間アメリカに行って来いと言われるくらい!)
でも娘が生まれたことで、私は「娘に見せたい母親像」を意識した。この「人の形」は人から望まれたものではなかった。純粋に、「私がなりたい私」の姿だった。
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今の私の形は、第一に娘の母、そして夫の妻だ。仕事は、夫の経営する小売店で働くパート職員。確かに一生懸命勉強してソーシャルワーカーになって、7年も働いてきたし、資格がもったいないと言われることも多々ある。でも、それでいいと思っている。
こうやって時にワーカーとしての話をしながら、webライターやイラストレーターとして活動して、夫とは一緒に趣味のバンドをして。「娘のせいでできなくなったことなどなにもない」と、「あなたの存在すべてが私の幸せだ」と、娘に対してメッセージをいつも発していたい。それが私が私に見た「人の形」だ。
幸い私は夫の人柄にも恵まれて、子供の存在をきちんと全面的に愛せる状況に生きている。そうなるよう、自分の最適行動、最適思考をとっていると思う。これからもそれを続けていくつもりだ。
解離はもう私にとっては病気ではなくなった。彼女は、私が「人の形」を維持するために必要な行動を共に考えてくれる思考パートナーだ。彼女がいることで、私は私の人の形を認識している。解離があるがために、より強固な自己認識にいたる。
そう、私は今、きちんと「人の形」を手に入れている。