10:母の生い立ちを理解する
マガジン「人の形を手に入れるまで」の10話目です。まだ前書きを読んでいない方は、こちらからご覧ください。
私は高校3年になる前に、私の母との関係性を見直すことにした。母を深く知ることにしたのだ。それに大学の4年間を費やそうと決め、心理学の道を志した。それは、今まで断片的に知らされていた母について線で結ぶ行為。そうして見えてきた母の側面には、私が「異常だ」と評するに至るロジックが隠されていた。
母は昭和30年頃の生まれ。それは第二次世界大戦から10年程度経った頃だ。祖父は祖母の中学時代の先生で、祖母は20歳で母を出産した。だが、戦後の混乱期、母は生まれてすぐ親戚の家へ引き取られ、5歳になるまで祖父母と離れて暮らしていた。
5歳になったある日、母が家に帰ってみるといつの間にか弟が出来ていた。弟は家を継ぐ大切な存在だと、宝物のように扱われていた。一方で、母と祖父母の関係はすこぶる悪いものだった。5歳までの間に「家族としての思い出」がないのだ。母からも祖父母への愛着はなく、祖父母からも母への愛着がなかった。
祖母は、嫌なことがあると母をホウキの柄で殴っていたという。祖母と母とはほとんど会話が成り立たず、祖母が母に声をかけるのは怒鳴る時と命令する時だけ。そのくせ祖母は管理欲求が強く、母の帰宅が3分でも遅れると「まっすぐ帰らず何をサボっていた」と詰め寄ったという。
この関係性は母が27歳頃まで続いた。それが終わったのは、あまりの理不尽さに母が家を飛び出したためだ。「これ以上この関係性を続ければ、私はあの人を殺すだろう」そう確信したから家を出たと、母は私に語った。
母が家を飛び出して向かった先、それは私の父の暮らす東京だった。当時父は東京の大学に通う為、ひとりアパートに暮らしていた。九州の田舎町にいた母からすれば、最も遠いところで暮らす知り合いが父だったのだ。母がひとりで蒸発したのでは捜索されて連れ戻されるかもしれない。遠い知り合いのところにいると知っていれば、連れ戻す労力を惜しみそこまで大事にはされないに違いない、そう考えてのこと。父も「そういう事情なら」と母を匿うことに同意した。
しかし、祖父母の反応はさらに予想の上を行った。祖父母は父の両親と話し合い、二人を結婚させることにしたのだ。結婚する本人同士には全くそのつもりがなかったにもかかわらず、婚姻届が出され、披露宴の日程が組まれた。
実は父は、中学教諭である祖父のお気に入りの教え子だった。祖父は中学教諭でありながら研究者として博士号を持っており、研究のためのフィールドワークによく父を連れて行っていた。その為祖父は、父の両親からすれば「うちの子の面倒をよく見てくれた先生」ポジションだったのだ。
その先生から「うちの娘がお宅の息子を追いかけて東京に行った、嫁にしてもらえるか」と聞かれれば、時代背景的にみても断れるはずがない。こうして外堀は埋められていき、私の両親は「夫婦」になることを強制された。母は、祖父母の強制力から逃れようとして、最終的にその強制力に父を巻き込んでしまったのだった。