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【NO.2】J.S.ミル『自由論』を読んで「議論する」ことを考えた -議論のあり方-

はじめに

ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年5月20日 - 1873年5月8日)は、イギリスの哲学者。政治哲学者、経済思想家でもあり、政治哲学においては自由主義・リバタリアニズムのみならず社会民主主義の思潮にも多大な影響を与えた。

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J.S.ミルは、19世紀を代表するイギリスの政治哲学者としてあまりにも有名だと思う。高校では確か「質的功利主義者」として紹介されていて、著書の『自由論』をセットで学んだ記憶がぼんやりと存在する。尊敬する大学教授の推薦書籍ということもあり、最近になってやっとだが『自由論』を読んでみた。

J.S.ミルの『自由論』は、個人の自由とは何か、そして社会が個人に実行する権力の限界を主題として論じている。つまり、個人の思想や行動には自由があって、他人に危害を及ぼさない限りは規制されるべきではないという、いわゆる「Harm Theory」が提唱される。それがトクヴィルによって主張された、民主主義国家における「多数者の専制」と絡まる形で、個人の自由の中でも、とりわけ思想の自由や表現の自由というのは、できるだけ確保されることが望ましいと訴えた点が奥深い。

しかし、こうした政治哲学上の多大な功績より惹かれたのが、J.S.ミルの「議論」に対する姿勢であった。実は、先日、議論することの意味合いや難しさについて悩むことがあった。それは、友人とジェンダー平等について話しているときのことで、女性を性的な消費物として見る不正義が、現代では漫画やアニメを通して再生産されているのではないかという話になった。友人と私の間には、ジェンダー平等を推進したいというコンセンサスが取れていて、その上で議論が進んだのだが、「女性を性的な対象として描く表現を規制する上での論拠が必要だよね」という私の発言が、フェミニズムに対してストップをかける反論だと受け取られてしまった。言い換えれば、男性優位の状況を享受するために、現状維持を決め込むためのポジショントークだと感じさせてしまった。私の意図としては、実際として倫理委員会のようなところで相応しくないものは公共の電波から弾いたりする規制の実績はもうあるのだから、こういうグラデーションの世界でいま問題となっている表現をどこまで消すべきなのか、論拠を示すことで変えていけるはずだ、という意味合いだった。もちろん私が男性、友人が女性という立場の違いからコンテクストとして有無を言わさずそこにはパワーリレーションが存在しており、これにいたずらに無意識なままこういった発言をしてしまったという失敗は私にある。同時に、私たちが議論というものをどう認識しているか、反論や異論にどのように向き合うべきなのか、そこに付随していくるパワーリレーションや自己利益に対する執着などをどう捉えたら良いのかなど、「議論すること」について考えなければならないと感じるきっかけになった。

そんな時に、J.S.ミルの『自由論』の中に、彼なりの議論に対する考え方が明解に提示されていたので、とても興味深く読ませてもらった。この記事では、彼の議論に対する姿勢を3つのキーワードで提示した上で、自分なりにそれをどう考えたか、どういうリテラシーが今後望ましいと考えたのかをさいごに書ければと思う。議論って難しいよね、というだけの話っちゃ話なのだが、J.S.ミルの『自由論』を参考に、こういう議論のあり方が有意義なのではないかという考えに共感や刺激を多少含むことができれば、ひとまずの目的は果たせたとしたい。

1:人は間違える、だから耳を傾ける

一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である。

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J.S.ミルは、民主主義における「思想と言論の自由」を強調する。特に議会制民主主義において、政府というのは多数者側の政府であって、多数者は正当性を持って、それが法律を通してであろうと世論を通してであろうと、容易に少数側を抑圧することができてしまう。だからこそ、J.S.ミルは、少数者が自由に考え、自由に議論する権利が特段の配慮を持って保護されるべきだとした。

この前提として、J.S.ミルの頭の中にあるのは、人は間違いを犯すものであり、ほとんどの場合、一面的な真実しかないという、ある意味で人間の限界に対する謙虚な意識だ。さらに、彼によれば、こうした限界は理論上では重視されるが、実際の議論の場面においては軽視されることを指摘している。これは面白い。しばしば、私たちは自分が絶対に正しいと思ってはいないだろうか。よくよく自己反省的に自分の主張を問い返していけば、自分の言っていることが本当にそうなのか、よくわからないことはないだろうか。また、相手の主張を表面的にだけ理解していることはないか。こうした意識が実践できていないことをミルは問題視した。

これはおそらく古代ギリシャのソクラテスが実践した問答法を使えば、明らかになることだが、自分たちの知っていることなど大したことはない。次のJ.S.ミルの謙虚な知に対する姿勢は示唆的だ。これは人の判断が信頼できると考えられる根拠を述べている。

どんな反対意見にも耳を傾け、正しいと思われる部分はできるだけ受け入れ、誤っている部分についてはどこが誤りなのかを自分でも考え、できればほかの人にも説明することを習慣としてきたからである。ひとつのテーマでも、それを完全に理解するためには、さまざまに異なる意見をすべて聞き、ものの見え方をあらゆる観点から調べつくすという方法しかないと感じてきたからである。じっさい、これ以外の方法で英知を獲得した賢人はいないし、知性の性質からいっても、人間はこれ以外の方法では賢くなれない。

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私のエピソードに関しては、私が優越側の立場を享受していることを考慮すれば当たらないのだが、J.S.ミルは、さらに自分の意見を根拠を持って主張するだけでなく、反対側の言い分を論駁するという、両者が揃って初めて無知でないに等しいと主張する。すなわち、極めてアカデミックな議論に近いものが想定されるだろうが、AではなくBであると主張するには、両者の言い分をきちんと理解して、なぜAではないといえ、なぜBであると言えるか、を主張することが議論で重要であるとしている。これは、自身の主張に固執して相手の話をしない、そうして争点が噛み合わずに平行線をたどるような、どこか日本でしばしば見られる議論形態を思い返した時に非常に示唆的ではないか。

2:自己利益の果ての意思形成

J.S.ミルは、道理なき意見は、個人的な好き嫌いでしかないという。加えて、仲間内でだけ通用する道理であれば、例え多数の意見であっても、それはやはり好き嫌いでしかないと喝破する。つまり、誰の目にも明らかな論拠を示せないような意見、なんとなくそれがいいと思うのは、個人のpreferenceでしかないということだ。さらに、意見の因子として、理性的でないものがたくさん混じっていることも指摘する。

因子としては、理性もあれば、偏見や迷信もある。また、人間の社会的な感情もその因子であり、羨望や嫉妬、傲慢や軽蔑といった反社会的な感情も因子である。しかし、なんといっても各人の欲望や恐怖──つまり正当なものであれ不当なものであれ、各人が守ろうとする自己利益、これこそがもっとも一般的な因子なのである。

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上記の通り、理性的な根拠、偏見や迷信ベースの理由、感情的な因子、さらには自己利益を守ろうとするモチベーション、こう言った複数の原因が絡み合って自分たちの意見を形成していると、彼は主張する。なるほど、そうだろうと思うと共に、だとすればこのことに無意識であることはとても恐ろしい。自分たちはなんとか社会全体にとってうまい方法はないかと理性的にロジックを通して議論しているつもりでも、そこには偏見や無理解が多分に含まれていることもあるだろうし、意地汚い感情が歪めているかもしれないし、結局は自分の都合の良いようにポジショントークにそれらしい理由づけを展開しているだけに過ぎないのかもしれない。

この話が深刻なのは、一般的に議会制民主主義が採用する選挙制度は、投票数という民意が数字に変換されたものを基本に運用されるが、仮に自己利益をベースに意思決定が行われるならば、それは多数者の好き嫌いの集計結果によって、パワーリレーションの優越的な立場の意思が運用されてしまうことだろう。つまり、理性的な議論の成果物として意思決定が行われるのではなく、結局、自己利益にかなうもので意思決定が行われるならば、それは理性的ではないという問題にぶつかる。実際の議会を見れば、社会的な弱者である少数者への配慮は払われている気がしないでもないが、例えばLGBTQやジェンダー平等、外国人など、優越的な立場の人間に「他者」として扱われがちがカテゴリーに属する人々からすれば、なんともfixされた状況に絶望することは想像できる。その意味でも、理性的な議論な可能性はやはり模索されるべきだろう。Deliberative democracyが、その道だと信じたい。

3:反論や異論に対して、不寛容な社会

『自由論』では、反論に不寛容な社会も言い当てている。彼のいう不寛容な社会とは、反対意見に制裁を加えるようなものではなく、誰も異論を殺さずに、しかし本心を偽らせる、または積極的な意見を広める努力を抑圧する社会だ。そんな社会で登場する人物を3つ挙げている。

そういう社会で登場してくるのは、ありきたりの俗論を唱える者か、あるいは、確信などもたず、どんな重大問題についても相手にあわせようとする日和見主義者か、そのどちらかだけである。そのどちらにもなりたくなければ、自分の思考や関心の範囲を狭め、原理の領域に踏み込まずに済む話題を選ぶしかない。つまり、小さな日常の話題に限ることだ。

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J.S.ミルは、これに追加して、最後まで自分で考え抜くことの重要性を強調する。他の人が言っていることを繰り返すことを極端に嫌う。それは、彼のいう人間の知性として最も遠いところにあるからだろう。長らく課題だと言われている日本の政治的無関心とは、この辺りに一つの本質的な原因があるのではないか。言い換えれば、日本のhomogeniousを好む不寛容な社会に対して、publicな領域の問題を自分の頭で考えて、それをアウトプットできないのではないか。だから、俗論を繰り返すか、相手に合わせるか、privateな領域に篭るかの、3択を迫られてしまう。

もちろん、この主張にも問題があって、例えば、生まれた家の教育資本の格差によって、大学の高等教育や生涯年収に格差が生まれていて、大学エリートはリベラルになりやすい背景を考えれば、これはエリート側による上から目線の批判に過ぎない。他方、自分の頭で考えていくことは、教育のあり方を見直す中で幾分か向上できないものかとも思う。

あと、少し話題から逸れるが、自己利益で意思決定しているから反論に手厳しいという考え方に加えて、これはJ.S.ミルの話ではないが、アイデンティティという問題もあろう。自分の意見というものは自分が発信しているものだから(ありきたりな俗論を自分の頭で考えずに唱えている場合を除き)、自分の創作物と言える。それを否定されることで、アイデンティティが傷つけられたと感じ、不快な気分になる。そういう意味では、議論するということは、イコール、反論と正面から向かい合うことであり、特に自分が多数者の優越的な立場にあるならば尚更、自分の意見を変えるだけのリテラシーと覚悟がなければ、それはもう有益な議論にならないのだろうと思う。

さいごに

ここまで、3つに分けて、J.S.ミルの議論に対する考え方をベースに進めてきた。まず、人は間違えるから耳を傾けるという話をした。次に、意見を形成するものとして自己利益が強いという話があった。そして、反論に不寛容な社会という話をした。結論として、冒頭に提示した、議論というものをどう認識しているか、反論や異論にどのように向き合うべきなのか、そこに付随していくるパワーリレーションや自己利益に対する執着などをどう捉えたら良いのか、の3つに一問一答したいと思う。

議論というものをどう認識しているか?

J.S.ミルを参考に、議論とは、理性的に根拠をベースにして、自分の意見の論拠だけでなく相手の意見の論拠もちゃんと理解できるように耳を傾け、正しいと思われるものは受け入れ、納得できないものは論理を通して反論するもの。

反論や異論にどのように向き合うべきなのか?

議論するということは、イコール、反論や異論と正面から向かい合うことであり、特に自分が多数者の優越的な立場にあるならば尚更、自分の意見を変えるだけのリテラシーと覚悟を持って、誠意と謙虚さを持って向き合うべき。

そこに付随していくるパワーリレーションや自己利益に対する執着などをどう捉えたら良いのか?

パワーリレーションによるギャップや、自己利益による縛りが発生していることを意識的に把握し、それを踏まえた上で、例えば自分が優越的であるならば、自分の発言がどのような意味合いを帯びてしまうのかを考慮しながら、議論を進めれば良い。

現状、こうした議論のあり方が望ましいのではないかと考えているのだが、正直まとまっていないし、これからどんどん叩いて強くしないといけないことを自認している。駄文をだらだらと書いてしまったが、ここまで読んでくださったあなたに、少しでも発見や刺激があったのならば、これほど嬉しいことはない。


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