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『対話とは何か-哲学カフェ・思考の現場-』制作レポート

2023年に制作したドキュメンタリー作品『対話とは何か-哲学カフェ・思考の現場-』(12分)を、この度「きみの南海映画祭」で上映いただく機会をいただきました。

期間:2024年2月10日〜12日
場所:八幡工房(和歌山県海草郡紀美野町小畑73−1)


「きみの南海映画祭」HP


お近くの方はぜひよろしくお願いいたします。
今回は、上映が決まった記念に、過去に書いていた制作レポート(五芸祭の記録)を公開します。


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 「対話とは何か」についての哲学カフェの様子を記録・撮影した映像作品『対話とは何か-哲学カフェ・思考の現場-』を、2023年5月26〜28日の五芸祭で展示しました。この記事はその様子を記録・報告するものです。 

 哲学カフェの撮影は5月11日に行われ、高橋さん・呉さん・田辺さん・杉浦さん・比田さんの、5人のゆるてつメンバーが参加していました。その日の哲学カフェでは、「議論と対話の違いは何か」「ChatGPTに話しかけても対話の実感が得られないのはなぜか」「自分が対話だと思っていれば、相手からの応答がなくても対話なのか」「過去の自分や、植物等との対話は可能か」といった、白熱した“対話”が展開されていました。

 五芸祭では、ありがたいことに多くの方に作品をご鑑賞いただきました。会場では「あなたにとって“対話”とは何ですか?」というメッセージとともに付箋を用意し、テーブルクロスの好きな場所に貼ってもらいました。正直、設置段階では書いてもらえるか半信半疑だったのですが、結果的には多くの方が付箋を手に取り、さまざまな意見を書いてくれていました。それはきっと、映像の中に登場する5人の真剣さが、鑑賞者に届いたからだろうと思います。

五芸祭会場に貼られた鑑賞者による付箋

「あなたにとって“対話”とはなんですか?」という問いかけに対する返答



 付箋に色々な返答がある中で、3割くらいは対話に対し後ろ向きな解答があったことが印象的でした。「人間の悩みとは、すべて対人関係の悩みである」とアドラーは言ったそうです。対話に苦手意識を持つのは私だけではないということ。また、対話は生きている人全てにとってのトピックなのだということを改めて感じました。

 今回そもそもなぜ哲学カフェの様子を撮りたかったかというと、自分から離れた、展開を他者にゆだねた映像作品を作りたかったためです。今回の制作を通じて、企画(自分)→対話の撮影(他者)→編集(自分)→鑑賞(他者)という、自分なりの対話を実現できたように思っています。

 今回の映像編集のために、5月11日の哲学カフェの内容を幾度となく見返しました。収録現場では、カメラのアングルやショットをどうにかするのに必死でほとんど議論の内容は頭に入っていませんでした(すみません)。
 1度目に観返した時は、やはりそれらをチェックするのに必死で(「あー、欲しい画と全然別のところ撮ってるな」とか)また頭に内容が入ってきませんでした。
 2度目に観た時に、ようやく会話の流れが頭に入り、3度目に観た時に1人1人のキャラクターや主張が分かるようになりました。
 そして4度目に観た時、気になる言葉、私と共鳴するような言葉を拾えるようになりました。

 その後編集でまた何度も何度も参加者の皆さんの言葉を繰り返し聞くうち、自分の主張と、皆さんの主張が混ざり合い、その中から自分の主張のようなものが作り上げられていくような感覚になりました。それは、あらかじめ自分が言いたいことを人を介して言わせるような予定調和なものではなく、他者に委ねることで初めて生まれるものだったと思います。そもそも私は“他者”のことも“対話”のことも何も分からず、皆さんにお聞きしたくて「対話とは何か」についてお聞きする機会を設けました。

 高校生の時、ある人から「君は人間を分かっていない」と言われました。それ以来、人間が何なのか考え続け、哲学の真似事のようなこともしてみましたが、よく分かりませんでした。
「人間って何だろう」
「分かるって何だろう」
 今回の試みは、そんな問いかけの連続の中で生まれた、自分なりの答えに近づくための一つの実践なのだと思います。今回の対話を通じても、やはり私は人間が分かりませんでした。そして一生かかっても完全に分かることはないのだろうとも思います。しかし、少し前進するぐらいのことはできたのではないかと感じています。そして、映像を観た人にも、そうなってもらえれば嬉しいです。

 今回の制作にあたり、出演はもちろん、リハーサルや会場についても協力してくださったゆるてつメンバーの方々には心からお礼申し上げます。

 映像の講評で教授から言われて印象的だったことは、「この映像には共に過ごした時間が映っている」ということでした。「雨が降っていた時間から哲学カフェが始まり、晴れて夕日になるまで同じ空間で過ごし、そうして途中で疲れて『夕陽きれい』と外を撮っているカメラマンの視点など、そういったものまでが映り込んでいる」ということを述べていて、たしかに時間と空間の共有を映像に収められたことは嬉しいことだったと思っています。

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