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葬いという行為を展示することの問題 -ベンヤミンの礼拝的価値・展示的価値を参考に-

「以前の使われ方の痕跡を残しながら、『礼拝的価値』(Kultwert)を『展示的価値』 (Ausstellungswert)に変質させることで芸術作品は現在と過去のあいだの連続性を体現することが出来る」(ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」より)

 第3回の授業の中で、上記の表現があり、ベンヤミンによる芸術作品の展示についての考察について興味が沸いた。
 本稿では、筆者が行った、近親者の死をモチーフにした作品展示が、ベンヤミンによる芸術作品の歴史観においてはどのような意味や問題を持つのか考察したいと考える。
 筆者は2023年11月の先端芸術表現科の学部2・3年生の成果展で、亡くなった祖母に関する作品『四十九日』の展示を行った。展示の3ヶ月前に亡くなった祖母の遺品を置き、光源であるライトを鑑賞者に揺らしてもらい、遺品の影の揺れ動きを見てもらうという展示だった。会場にはその他に、祖母の葬儀の後にその近くを運転していた時の映像と、その時呟いていた独り言についてのテキストを展示した。(図1)


図1『四十九日』

 講評や感想では「この作品における鑑賞者の立ち位置が分からない」「作者とその祖母の死という出来事の距離が近すぎて、その中に入っていけない」「そもそもこの展示を人に見せたいと思っているのか」等の意見があった。
 その時、私がしたかったことは個人的な葬いであり、大勢の鑑賞者に作品を見せたかったわけではなかったのではないかと考えるようになった。また一方で、身近な故人に対する気持ちを整理するために制作を行うことは、芸術作品を展示する態度として不十分だったのだろうかという問いが生まれた。そのような態度においては、一体何が問題となるのか、ベンヤミンの論を用いて検討していきたい。

 ベンヤミンは、芸術史は、芸術作品における重点が、礼拝的価値から展示的価値へと移行していく交替の過程であると見なすことも可能だと述べている。芸術史とは、一回性かつ権威の象徴であるアウラが凋落していく歴史であり、大衆によって、アウラの持つ一回性・耐久性が、一時生と反復性によって克服される歴史だとされている。『展示的価値』が『礼拝的価値』を上回るには3つの段階があると述べている。
(1)呪術・宗教の対象
(2)芸術作品
(3)複製技術
 郭氏(2019)は、「多くの研究者たちはベンヤミンが{複製技術時代の芸術作品}で論じた{礼拝価値/展示価値}の歴史的変遷の第二段階から第三段階への過程{機械的複製技術の誕生}に注目するが、(…中略…)第一段階{呪術・宗教の対象}から第二段階{芸術作品}への過程をもベンヤミンの{アウラ喪失}を構成する重要な一部分だと考えている」と述べている。
 つまり、ベンヤミンは儀式や宗教に用いられた礼拝的価値を芸術作品の動機の根源であると見なしている。

 最古の芸術作品は、僕らの知るところでは、儀式に用いるために成立している。ところで、芸術作品のアウラ的な在りかたが、このように儀式的機能と切っても切れないものであることは、決定的に重要な意味を持っている。

 芸術作品は、魔術に用立てられる形象の制作から始まった。この形象の場合には、存在することだけが重要であり、見られることは重要ではない。石器時代の人間が洞窟の壁に模写した大鹿の像は、魔術の道具であって、仲間たちに展示されることがあるとしても、このことは偶然ではない。何より重要なことは、その像が精霊たちによって見られることだった。礼拝的価値自体は、ほかでもなく、隠れた状態に芸術作品を保つことを要請する。

多木浩二(2000)『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫

 筆者の制作した作品『四十九日』へと立ち返ると、『四十九日』は、亡くなった祖母へ向けられた作品であり、また、祖母の供養(=私の内面の整理)のための作品であるということができる。これは、目的としては多くの人々に鑑賞されることを想定していない、神や霊に向けられた呪術・宗教の対象であった原始時代の芸術に近い作品であるということができる。一方、展示形態としては、移動が可能であり、展示場所も祖母とはゆかりのない東京藝術大学取手校地であったため、「いまここ」の一回性を持つものではない。
 この、誰でも観ることが可能な「場所」にありながら、供養という宗教的・呪術的な「目的」を持つこと、目的と展示形態のねじれが、鑑賞者に混乱を起こし、「本当にこの展示を鑑賞者に観せたかったのか」という批評に繋がったのではないだろうか。
 また、ベンヤミンはパサージュ論のなかで、現代を「ファンタスマゴリー」(幻燈)のようなものであると述べている。資本主義の中で、幻燈で映し出された巨大な幻影を人々が追い求める時代であると考えている。幻影は、人々が芸術作品に対して見出すアウラと類似性を持つように筆者は考える。筆者の制作した作品もまた、遺品という唯一無二のものから出る影を鑑賞するものだった。それは、ベンヤミンが指摘するように、礼拝的価値を展示的価値が駆逐する現代において、時代錯誤なものだったのかもしれない。
 一方、ベンヤミンは「写真が現れたことで、全戦線において展示的価値が礼拝的価値を駆逐しはじめる。だが礼拝的価値は、無抵抗に退却するわけではない。…(中略)…はるかな恋人や個人を追憶するという礼拝的行為のなかに、映像の礼拝的行為は最後の避難所を見出す」と述べており、複製技術の時代にも礼拝的価値が残る可能性を述べている。
 スーザン・ソンタグは『他者の苦痛へのまなざし』の中で、「一八三九年にカメラが発明されて以来、写真はいつも死と連れ立っていた」と述べている。
 複製技術時代の第3段階の時代である現代においても、呪術的・宗教的な要素(死を悼むこと)を目的とした芸術作品は再生産されている。
 むしろ、人間が芸術を作る契機となった目的は、今後も芸術作品の中心の主題であり続けることだろう。その中で、目的と場所のねじれに注意を払いつつ、鑑賞者を置いてけぼりにしない展示について、今後も考えていきたい。

【参考文献】
多木浩二(2000)『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫
郭軼佳(2019)「ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念についての考察 : 「アウラ喪失」の歴史的経緯について」『千葉大学人文公共学研究論集(39)』千葉大学大学院人文公共学府
スーザン・ソンタグ(2003)『他者の苦痛へのまなざし』みすず書房,北條文緒訳


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