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カルネアデスの舟板

私は大学で法律を学んでいる。
大抵の法学部生が講義で学ぶある有名な命題がある。

「乗っている船が難破し、あなたは命からがら一つの舟板にしがみついて何とか難を逃れている。しかし、もう一人の生き残りがあなたの掴んでいる舟板を掴んで助かろうとしている。そうすれば舟板は確実に沈み、二人とも溺れ死んでしまう。あなたはどうすべきか。」

長い命題であるが、要するに「自分が危難から逃れるために他を蹴落とすことは許されるか」ということである。
この問題には形式的には答えがあるとされるが、色々な見解があってよいと思う。

これとは別に全く本質が異なるが、有名な「トロッコ問題」(trolley problem)がある。あまりに世に広まっているため、命題自体の説明は省く。

あれはどう考えてもレールのスイッチを変えないだろう。どうして他人の命を天秤にかけて運命を変えてしまうことが出来ようか。

ここで重要なのは、危難が迫っているのが「他人」だということである。

このままいけば何も知らずにただの事故として数人が死亡するかもしれないが、人の選択肢が介在すればもはやそれは殺人なのである。他人の運命にむやみやたらに干渉すべきではない。

では、前述の「カルネアデスの舟板」はどうか。「他人」同士の生命にはあれだけ干渉を厭う私は、ここでは迷いなくもう1人を押し除けてしまうかもしれない。それだけやはり共感性が薄いというか、どこか自分本位なところが影響しているのかもしれない。

しかも生意気なことに、法律を学んでいるのをいいことに「刑法37条1項の緊急避難で、正当化事由があれば違法性が…」などと言い出すものだから救いようがない。
というか心理テスト的な軽い気持ちで聞いた友人にこんな返し方をしたら引かれることであろう。

この「正当化」は、利益を天秤の上で衡るうえでは重要なファクターである。本来峻巡すべきものを即断しなければならないときに非常に働きやすいものである。


幼い頃、天海祐希(『離婚弁護士』)、堺雅人(『リーガルハイ』)をドラマで見て、弁護士という職業に憧れた。また元・日弁連会長の宇都宮健児氏のノンフィクション作品を見て中学生ながら感銘を受けたものである。

我々のうち一体どれだけの人が将来の夢を叶えるのであろうか。

夢というものは非常に流動的で、価値観や立場が変われば容易に変化しうるものである。だから「夢が叶う確率」や「夢を叶えた人の統計」を語るのはナンセンスであり、極端なことをいえば叶えればいい。

これは本当に極端な話である。しかし、多くの場合「叶えればいい」なんて意見は実に無責任で、それこそ夢見がちな発言である。

なぜ人はそこまで将来の夢について助言をしたり、叶えさせたがるのか。

それは助言する立場からすれば「他人事」であり、叶えようとする当人にとっては「自分」が懸かっている非常にデリケートな問題であるからだ。

なぜ「デリケート」なのかというと、夢には一般にタイムリミットがあるからである。
これは残酷な話で、職業自体に年齢制限が設けられていたり、就職しなければならない(せざるをえない)といった選択を迫られる場面がいずれ訪れるからである。
このことは決して誰かに迫られているわけでもなく、大抵の場合存在すらしないものであるが、やはり現実に存在すると言った方が適切であるように思う。

この時我々は、板を掴んでいる。
向こう側にいる、あり得たかもしれない「自分」が、現実的であろうとする自分の板を掴もうとするのだ。しかし、その「自分」を許すと、もしかしたら二人とも助からないかもしれない。
だから現在の自分で在り続けるために「自分」を殺さねばならない。

そんな選択を迫られているときに、他人が「他人事」としてあれこれ指示してくるとすれば、当事者の我々からすれば、難破船に現れた我々を惑わす死神のようにすら思える。

数か月前、9浪目の医学部受験生が母親を殺害する事件が報道された。
私はこの行為そのものに全く賛同することはできないし、正当化できようとは思わない。ただ、自分と「自分」を10年間較べることを強いられ続けたことには同情の余地があると感じる。


私は今、就職活動期という大きな波にさらわれて舟板を掴んでいる。
このまま私が舟板を掴み続けていれば、今後は何とかサラリーマンとして普通に暮らして、家庭を作り、普通に生き永らえるかもしれない。

向こうで溺れかけているロースクール生の私がこちらに近づいてきている。彼が舟板を掴んだとして、今後の人生で成功する保証はないし、何なら今の私を押しのけて板を掴んだところで、海の中ただ一人生きて行けるとは限らない。だが彼は私が生きていてほしかった「自分」である。

答えがないのが人生というが、その答えを見つけるにはあまりに短すぎるというものだ。
そんなことを言っている間にも、私が乗る船が浸水し始めている。

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