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マーヴェリックはクィア・ヒーローか? トップガンとホモソーシャルの向こう側

2022年公開映画『トップガン マーヴェリック』の主人公、ピート”マーヴェリック”ミッチェル大佐は「妻も子供もいない」男だ。亡き相棒の息子・ルースターによると、「死んでも誰も悲しまない」境遇にある。

1986年公開の前作『トップガン』で私たちが出会ったマーヴェリックは、積極的に女性を口説く若者だった。親族はおらず、軍の相棒グースが擬似家族だが、そのうち女性と結ばれて自分の「家庭」を作りそうな感じがあった。

だが『トップガン』を語る上で欠かせないのが、クィアリーディングだ。マッチョな男たちを崇めるようなセクシーな撮影が特徴的で、脚本中にもかつ男性同士のエロスを匂わせるダブルミーニングを含んだ台詞が多い。映画としては主人公マーヴェリックと教官チャーリーの恋模様を描くスポ根ホモソーシャル物語なのだが、あまりにホモエロティックすぎる…ということで、カルト的に「ゲイクラシック」映画として受容されてきた歴史がある。

それを踏まえた2022年、マーヴェリックはいまだに独身者だ。ペニーとはくっついたり離れたりを繰り返しているらしいが、一緒に家庭を作る関係にはならなかった。
前作でのマーヴェリックは、男だけのホモソーシャルな世界で成長し、男同士の愛に育まれたが、最終的にはギリギリ異性愛に帰着することで英雄の旅を終えた。
そんな男性ホルモン溢れる伊達男だったマーヴェリックは壮年になり、かつての「デンジャー」な男らしさはもう無い。物語としても恋愛要素はほぼ省かれ、スポ根、成長、家族…といったテーマに集中しており、本作のマーヴェリックはどこか脱性化されたキャラクターだ。
(※前作ラストシーンをマーヴェリックの異性愛世界への復帰ととるか…には解釈の余地があるが)

こうした前作と大きく価値観の違うプロット、魅力的だがセクシュアリティの薄いキャラクター性、そして前作のクィア的受容を踏まえれば、マーヴェリックをクィアな主人公として解釈するお膳立ては十分に揃ったように思える。が、本作が行った「改革」はよりパーソナルなものだった。

本作のマーヴェリックは(またもギリギリ)クィアヒーローではない。だが別の意味で、彼はとても今日的な主人公だと思う。

かつての彼はその名の通り反逆児で、前作では軍という規範に反抗するアンチヒーロー的だった。でも本作のマーヴェリックはアンチヒーローではない。というか、彼は何に対しても「subversive」でないキャラクターだ。
軍の規律にも、異性愛主義的な家族規範に対しても、反抗はせず、ただオルタナティブを提示する。

規範を尊重する。しかしNot for meな規範を出されれば、別の解答を出す。それが2022年のマーヴェリックだ。クィアなヒーロー、アンチヒーローと呼ぶには劇的なラディカルさが足りない。社会に対するコメンタリー要素がないのだ。
しかし、30年以上もハリウッド主演男優の看板を背負い、激しい浮き沈みを体験してきたトム・クルーズという役者のパーソナルな着地点としては、これ以上ないほどしっくりくる。

「アンチ」しない、でも従わない。

2022年、映画館を一歩出ればカオスな社会が待っている。疫病、経済、戦争、政治、問題山積。SNSによって、社会への立場や意見を表明することはいまや「当たり前」で、しかも好戦的な「意見」ほどバズったりする。ずっと存在してきた問題が、社会の進歩やインターネットの普及で陽の目を見るのはもちろん大事なことだ。しかし個人のメンタル許容度の視点でみると、深刻な情報が多すぎるかもしれない。
そんな社会で、傷つきやすくいることは難しい。もしかして、ソフトでいることはいま一番ラディカルな活動なのだろうか?

2022年のマーヴェリックは(やってることは相変わらず滅茶苦茶だが)肩肘張らないキャラクターだ。彼は兵士だが、本当の「戦い」はルースターとの和解というパーソナルな次元で起こる。
本作で起こる革命は、信頼や助け合いといった個人の前進だ。ハードな世界を生き抜くために着込んだ鎧を捨て去り、他者と寄り添って生きる道を選ぶ。セクシュアリティだけでなく、より広義な「男らしさ」から脱却するのが本作の英雄の旅路だ。
アンチヒーローから「ヒーロー」へ。そんなマーヴェリックは「ソフト」だからこそ、現在にふさわしい主人公なのかもしれない。


※Subversive とはざっくりこんな意味:
 〔政府などの支配体制を〕転覆させる、破壊する
 〔活動・組織・思想などが〕反体制的な、破壊的な

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