ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑭
あらすじ
主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
第4章は美濃攻略です。木曽川以外に両者を分ける障害物が無いのに、信長は美濃攻略に7年もかけています。それは何故なのか?周辺各国の情勢や同盟関係など、様々な要因が複雑に関係しているようです。
第4章 美濃攻略
~組織論をふまえて~
第2節 後継者問題・斎藤龍興
1561年5月、一色義龍(斎藤利尚、范可、高政:斎藤義龍)が急逝。
このことは、その日のうちに尾張に届いた。
「胡蝶。申し訳ないが、美濃はどうなる?」
心配そうに信長が言った。今は戦国の世である。胡蝶が斎藤義龍と仲が良い事は知っていたが、その義龍が死んだのだ。信長には、今後の情勢の方が気になっていた。
「龍興が後を継ぐでしょう」
室町幕府には、相伴衆と呼ばれる役職的な身分があった。将軍が宴席や他家訪問の時、お供をする特定の守護大名である。相伴衆には、三管領(畠山、細川、斯波)や四職(赤松、一色、京極、山名)など、他よりも家格が上とされる守護大名がなる。この頃には、実質的な役職というよりも、名誉格式になっていた。
1559年、朝廷にお金や宝物を献上して、斎藤義龍は、相伴衆の家格に当たる、一色義龍と名乗る事を認められている。斎藤龍興は義龍の一色の名を引き継いで使っている。多くの資料は斎藤義龍・龍興の一色姓を認めておらず(或いは認知しておらず)、斎藤で記述している。
斎藤龍興(一色龍興)は1547年に生まれている。父は斎藤義龍、母は浅井家から嫁いだ近江の方である。1549年に胡蝶が織田家に輿入れした時、龍興はまだ満2歳になっていなかったので、ほとんど面識が無い。道三は1553年の政秀寺開山より沢彦としての活動が多くなっており、龍興がもの心がつく頃には、接する機会が激減していた。斎藤龍興の父・義龍も政務の忙しさもあって、ここ数年は龍興の教育にあまり手が出ていなかった。そのため、教育は側近任せになっていたのだが、良くない話も伝わっていた。その中には長井隼人との関係も含まれていた。
そんな不安が募っていた矢先に、斎藤龍興がわずか14才で跡目を継いだのだった。
「ちゃんと引き継いでいないと、表向きだけでなく、本格的に美濃と事を構える事になるぞ」
「はい。私もそれを懸念しています」
胡蝶と斎藤義龍のコネクションは、「道三=沢彦」同様に極秘扱いであり、美濃でも知っているものは極めて限られていた。そのため岩倉城の戦いの時、桶狭間の戦いの時、斎藤義龍(一色義龍)は動かなかったが、国境の一部の領主は独自の判断で尾張に侵攻を試みたものが散見されたのである。その報復として信長は安八郡を攻撃している。ケジメをつける姿を内外に示さないといけなかったからだ。
夕方、喜平次が胡蝶を訪ねてきた。長良川の戦いの前に斎藤家の喜平次(胡蝶の弟・一色右兵衛大輔)は死んだ事になっている。そのため、一色の名は使えず、いまは美濃屋喜平次を名乗っている。
「姉上、龍興はダメだ。話ができない」
「どういうこと?」
「義龍兄から何も引き継ぎが出来ていないようだ。取次ぎすらしてもらえない」
「それは良くないわね」
胡蝶の言葉に信長も黙ってうなずいている。
「それだけじゃない。周囲に武田に通じた者が集まっている」
「何!」
これには信長が反応した。
「長井隼人というのが居て、どうやらこいつが武田の手の者だ。それに快川和尚を知っているだろ。快川和尚もほぼ武田派と見て良い」
「また長井隼人か」
信長が確認するようにつぶやいた。斎藤義龍が快川紹喜を避けた時に出てきた名前である。
「はい。龍興の周りの何人かとつるんで、龍興の周囲を固めているのです」
喜平次は、信長には丁寧に返事をした。
「龍興は、武田に取り込まれたのでしょうか」
胡蝶が、不安になって問いかけた。
武田信玄は、越後の虎・上杉謙信と東海一の弓取り今川義元に挟まれている。二つの強敵に挟み撃ちに合わないように今川義元、北条氏康と同盟を組んだのだった。(甲相駿三国同盟)その際、武田信玄と今川義元には暗黙の合意があった。中山道に沿って武田信玄が領地拡大し、今川義元は東海道に沿って領地拡大するというものである。尾張は今川義元が、美濃は武田信玄が取るというものである。武田信玄は近江までを視野にいれていた。
桶狭間の戦いで今川義元が死ぬと、武田信玄の興味は遠江・駿河に移る。戦国時代は小氷期にあり、飢饉が起き易い時代である。そのため穀倉地帯として美濃よりも遠江・駿河の方が、甲州に近く輸送が容易であり魅力的なのである。とは言え、桶狭間の戦いまでは武田信玄が次に狙う領地は美濃であり調略対象であった。その成果が快川紹喜であり、長井隼人である。また中山道沿いの犬山城・織田信清も武田の調略対象に含まれていた。
「確認するか」
「どうやって?」
「牽制を兼ねて、少し兵を出す。準備はできている」
「私も行きます。三人衆の誰かが来ていれば話をしたい」
「胡蝶はダメだ」
「どうして」
胡蝶が信長を見る。しかし、信長は目を合わせようとしない。
「ダメなものはダメだ」
信長の頭の中では、火薬玉を抱える胡蝶が浮かんでは消えている。
結局、胡蝶は信長の反対を押し切って、無理やりについて行った。
信長は、直ぐに兵を集めると、森部で様子見を見る事にして、楡俣の川を前に兵を展開した。川が緩衝地帯になって、仕掛けた方が不利になるようにしたのだ。そして、もし、龍興が義龍からホットラインを引き継いでいるなら、機を見計らって接触するつもりであった。一方、信長が軍を出した事を聞きつけた龍興は、織田軍と戦う気満々であった。
動員された兵力は斎藤軍6000に対して織田軍1500と言われている。それぞれ楡俣の川を挟んで対峙した。見通しが良いので、斎藤軍が大きく数で勝っている事は一目瞭然であった。なお、『美濃国諸旧記』によると織田軍は3000である。
しかし、そこに美濃三人衆の姿はなかった。これで義龍から龍興への引継ぎが行われていない事が信長と胡蝶にも確認できた。
その瞬間、
「掛かれ!」
斎藤軍から怒声が響き、合戦が始まった。森部(森辺)の戦いである。
結果は織田軍の圧勝に終わった。ここ数年大きな戦が無く、美濃三人衆をはじめ、有力武将(指揮官)が不在の寄せ集め美濃軍が、足場の悪い川に入って戦うのだ。相手は桶狭間で今川を破った織田軍の中でも精鋭である。倍半分とは言え、力の差があり過ぎた。
「信長様。私は帰ります」
胡蝶はがっかりして、清州城に帰ることにした。
「そうか」
どこか信長の声に安堵の色が伺える。そして、続けた。
「物資の手配を頼んで良いか?とりあえず十日分。追加が必要になれば追って連絡する」
「ええ」
森部の戦いで完勝した信長は、そのまま兵を進めて、十四条・軽海と兵を進めた。そこで、強く抵抗を受けたので、墨俣まで兵を引いてにらみ合いとなった。
六月に入ると、信長の本陣に伝令が来た。
「長井から武田へ連絡が行きました。援軍要請と思われます」
「そうか。一旦引く」
武田信玄が長井隼人に向けた、六月六日付けの書状が残っている。
ここにある、長延寺とは、長延寺の僧・師慶であり、武田の外交を担った僧侶である。井の口とは稲葉山城の事を指している。この時に出された書状と推察される。また、同じく六月六日付けにて、
『信長公記』では、5月24日に洲の俣に帰陣したとされ、その後、信長は洲の俣を引き払っている。十日以上の期間、軍兵を維持できる拠点・洲の俣があるのに、領土を取らずに尾張まで引き上げたのである。
信長が清州城に戻ると、各地に放っていた間諜からも続々と報告が上がった。
「まだ、武田に寝返った者は少ないようだ」
「特に、美濃三人衆が寝返ってなくて良かったです」
「問題は東美濃だな」
東美濃は長井隼人の本拠地でもあり、明知庄もある地域である。
「対武田の最前線ですからね」
「それにしても参ったな」
「参りましたね」
出来の悪い甥っ子が、何も聞かされておらず敵対する。しかも、武田に取り込まれようとしている。今、下手に手を出して武田を呼び込めば、そのまま美濃を支配される。そんな状況に、故・義龍への配慮から二人は頭を悩ませることになった。
首実検で、信長は再び心を痛める事になる。討ち取った者の中に、日比野清実が含まれていた。日比野清実は、おつやの夫であった。おつやは、父・織田信秀の年の離れた妹であり、信長と年齢の近い叔母である。しばらくして、おつやは生家の織田家に送り返された。後日、東美濃の遠山景任に嫁いでいく。
一方で良い話もあった。美濃の中でも勇猛とされた「首とり足立」こと、足立六兵衛が前田利家によって討ち取られていた。前田利家はまだ譴責処分が解かれず、出仕が認められていなかったが参戦していたのだった。桶狭間の戦い、森部の戦いと大きな手柄を立てた事で、信長は前田利家の譴責処分を解く事にした。これもまた信賞必罰である。信長が譴責処分を解くにあたり、無駄な死を諫めた事は言うまでもない。
反・武田の斎藤義龍が死去し、斎藤龍興が跡を継いだばかりの時、甲濃同盟は形をなしていない。にもかかわらず、十四条・軽海まで攻め込んでおきながら、この時、信長は領地拡大をせずに尾張に戻っている。他に妥当な理由が見当たらないため、武田との繋がりを把握している長井隼人や快川紹喜の動向をある程度把握していたと考えるのが妥当である。もしかすると、武田家への救援要請の書状を確認していたかもしれない。
ここで当時の通信手段(タイムラグ)を考慮すると信長の準備の早さも目をひく。斎藤義龍の死後二日で、信長は出兵している。まるで、斎藤義龍が死ぬ事を、信長は事前に把握していたかのようである。
一番の可能性は、病気の悪化を間諜を使って知っていたとする事だ。しかし、病死する日を正確に予測するのは難しい。しかも義龍は死の直前まで永禄別伝の乱に必死で対応しており、深刻な病状を外部から把握するのは難しいように思われる。従って義龍の病気という情報を得た時点で、機会があればいつでも出陣できる準備をしていたと考えるのが自然だろう。
次の可能性としては、信長が義龍の暗殺を計画していた場合である。しかし、この場合は美濃から完全撤退はしなかった筈なので、この筋書きには無理がある。しかも、龍興に世代交代して甲濃同盟が結ばれる。これは信長にとっては、むしろ悪い状況である。長井隼人や快川紹喜と武田信玄の関係を知っていたなら、信長にとって義龍暗殺は愚策で正攻法で美濃攻略していなければならない。
他の可能性としては、信長は第三者による斎藤義龍の暗殺計画を知って、出兵を準備していたというものだ。誰かが暗殺する計画を察知したのであれば、計画の実行日(斎藤義龍の死ぬ日)を事前に知る事ができるからである。戦国大名は大抵、暗殺の対象となっており、斎藤義龍も例外ではなかっただろう。斎藤義龍の死は快川紹喜に極めて都合が良いタイミングであり、長井隼人が美濃で大きな権力を握るキッカケとなる。二人と繋がる武田信玄にとって非常に都合が良い。状況から言えば、動機は十分である。そんな動きを信長が事前に察知していてもおかしくはない。
その後、永禄7年か8年に、快川紹喜を通じて、武田信玄と斎藤龍興の甲濃同盟が正式に結ばれ、誓詞が交わされる。(関市・長春寺『高安和尚法語集』より)
史実として、斎藤龍興と武田信玄の甲濃同盟を、信長が知っていたかどうかは不明である。甲濃同盟の古文書が残っているからと言って、同盟関係が外部に宣伝されたとは限らない。武田家の戦略を記述する甲陽軍鑑に甲濃同盟の記述が無い。隣国であるにも関わらず、甲濃同盟どころか美濃・斎藤氏の話題がほとんど無い。快川紹喜・長井隼人を通じた斎藤龍興と武田信玄との関係が信長の美濃攻めを牽制したにも関わらず、甲陽軍鑑には信長は美濃攻略を7年かけたと記述している。高坂弾正が知らなかったと言うよりも、意図的に避けているように思われる。
武田信玄を美濃に引き入れるキッカケを作らないように、甲尾同盟(武田信玄と織田信長の同盟)が成立するまで信長は美濃攻略に慎重になっていた。その甲尾同盟をもちかける時も、信長は甲濃同盟について知らなかったように甲陽軍鑑に記される。
斎藤義龍は長井隼人を遠ざけ快川紹喜を嫌っていたが、斎藤義龍の死後、早々に斎藤龍興は長井隼人と会談する。その後、斎藤龍興は快川紹喜に助言を求めるようになる。施政の連続性で美濃を見た場合、外部環境要因が変わらないのに、この方針変更は急であり極端である。
斎藤龍興が若過ぎたという事もあるが、斎藤義龍は斎藤龍興を後継者として育成しておらず、また適切にサポートする側近を配置できていなかった。そのため方針を維持できなかったのである。
世代交代による方針変更はよくある話であり、環境の変化に伴う新しい基軸の導入などはあって然るべきである。しかし、この後の斎藤龍興の状況を見る限り、やはり失敗と考えるべきであろう。
後継者育成や後継者を支える側近の配置は、事業継続における重要事項のひとつである。
(次回、ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑮に続く)
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参考:第4章
書籍類
信長公記 太田牛一・著 中川太古・訳
甲陽軍鑑 腰原哲朗・訳
武功夜話・信長編 加来耕三・訳
斎藤道三と義龍・龍興―戦国美濃の下克上 横山住雄・著
武田信玄と快川紹喜 横山住雄・著
天下人信長の基礎構造 鈴木正貴・二木宏・編 の3章 石川美咲・著
近江浅井氏の研究 小和田哲夫・著
インターネット情報
Wikisouce: 美濃国諸旧記 編者)黒川真道
Wikisouce: 濃陽諸士伝記 編者)黒川真道
Wikipedia