ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑯

あらすじ 
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第4章は美濃攻略です。木曽川以外に両者を分ける障害物が無いのに、信長は美濃攻略に7年もかけています。それは何故なのか?周辺各国の情勢や同盟関係など、様々な要因が複雑に関係しているようです。


第4章 美濃攻略
    ~組織論をふまえて~

第4節   トップの行動が組織規範・竹中半兵衛の稲葉城奪取

 義龍の死から2年以上が経過していた。
1563年某日、胡蝶を訪ねてくる若者がいた。
「葵。この方は?」
「はじめまして、胡蝶様。竹中半兵衛重治と申します」
 その若者は軽くお辞儀をした。これが竹中半兵衛との初めての顔合わせであった。
「美濃の国、不破郡の竹中重元の子で、安藤守就殿の娘婿に御座います」
 葵が素性を付け足した。不破郡とは現在の垂井町から関ケ原町にかけての地域である。竹中半兵衛の生まれは、近江の国(滋賀県)との国境に近くであった。
「安藤守就の名代にて、ご連絡したき事があり、まかり越しました」
「安藤殿はまだ、私を美濃の姫として義理立てしてくださるのですね。有り難い事です。それで、どんな御用かしら」
「一色龍興の件にございます。家臣に対する選り好み激しく、無能な太鼓持ちばかりを優遇するようになっております。注意する者が居なくなると、自堕落な生活が一層激しくなり、まつりごとが疎かになっております。いまや、『君、不肖なれば即ち国危うくして民乱る』です」
「『君、聖なれば則ち国安くして民治まる』。・・・六韜ね」
 有名な兵法書に孫子、呉子、六韜、三略、司馬法、尉繚子うつりょうし、李衛公問対の武経七書があり、六韜りくとうとはその一つである。主に、中国古代王朝・周の軍師、太公望呂尚の戦略を記したものである。周はいんを倒しているが、殷の皇帝紂王が酒池肉林の放蕩生活をして、民をないがしろにした事が原因で国を亡ぼしたとされる。半兵衛は、六韜を引き合いに出すことで、暗に斎藤龍興を紂王になぞらえて、その行動を批判したのである。
 胡蝶は半兵衛のセンスに満足しながらも、その意味するところに複雑な感情を覚えた。
「安藤殿はどうしておられる。氏家殿や稲葉殿もおられるでしょう」
「西美濃の御三人衆の皆様は特に遠ざけられ、最近では登城する事も少なくなっております」
「困ったものね」
 現代風に言えば、斎藤龍興の行動は、イエスマンのみを集めている状況である。意見が百出して纏まらないのは確かに問題である。意見を調整したり説得したりするのは手間がかかる。だからと言って、最初から異論を認めないやり方は、間違った考えや方法が修正されないため、高い確率で大きな失敗やトラブルを招く。
 16才の斎藤龍興には、家臣を纏める力がなかった。そこを長井隼人に付け込まれたのであった。長井隼人、それに繋がる名僧・快川紹喜に頼るようになっていた。それは同時に武田信玄に繋がる事でもあった。その結果、斎藤道三・義龍の頃と考え方が大きく変わり、家臣の間に動揺が生まれ、意見対立が頻発するようになった。そうした状況に、斎藤龍興は家臣間の調整が面倒臭くなって、長井隼人に頼り、異論を認めなくなり、そのまま増長してしまったのである。
 なお、斎藤龍興は、父・義龍が相伴衆として名門の一色姓を名乗っていたのを継いで、一色龍興を名乗っている。しかし、歴史を編纂する者の意向が働くので、龍興を名門家系とは認めず、一般には斎藤龍興として知られる。
「連絡と言いましたよね?相談ではなく」
「はい。既に腹は決まっております」
「何をしようと言うの?」
「一色龍興に一度、力ずくで城を出てもらい、下々の生活を見てもらおうと思っています」
「・・・それは悪くないわね・・・」
 半兵衛の眼を覗き込みながらつぶやいた。決意は固そうである。そして、質問した。
「腹が決まっているなら詳細はきかないわ。それでその後はどうするの?」
「元に戻します」
「?・・・半兵衛で良いわよね?」
「はい」
 胡蝶は初めて呼びかけるのに、通称を使うことを確認した。1544年生まれの半兵衛はこの時やっと20才。その表情には子供っぽさをまだ残していたため、竹中殿、或いは、重治殿と言い難かったのであった。半兵衛は半兵衛で、胡蝶との距離が縮まった気がして、悪い気はしなかった。
「元に戻すと言っても、力ずくで実行するなら、半兵衛は元に戻れないのではなくて?」
「そうですね。仮に上手く行っても居心地は相当に悪そうです」
「それは命に関わるわよ。どう、尾張に来る気はない?」
「有り難うございます。ですが、それでは義に反します」
「そうかしら」
「一色家家臣として諫言のために行動します。それが敵方に寝返っては諫言になりません」
  (敵方ねぇ。今となっては私も敵方なのだけど)
 尾張織田家は敵方であると告げた半兵衛の素直さに、胡蝶は少しくすぐったく感じた。
「では、越前の明智殿は如何?」
「少し難しいかと・・・。義龍殿と道三殿が長良川で戦ったおり、明智殿は道三殿に付いたお方です。一色龍興から見れば敵方になります。
 それに東美濃は長井の影響下にありますので、明智殿を頼れば長井を刺激する事になります」
 半兵衛は少し考えて、言葉を続けた。
「美濃を出る時には、北近江に行こうと思います」
「どうして北近江なの?義龍様の時以来、対立しているのではなくて?」
「北近江、浅井氏は一色龍興のご母堂、近江の方様の出自になります。成り行き上、今も対立しておりますが、龍興様は北近江に私怨はありません。
 六角が北近江を攻めた時には、浅井家家臣の一部が美濃に逃れてきた事があります。その者達を竹中家にて助けた事があり、北近江にはそうした見知った者がおります。何より、不破郡に近いので」
「本当に大丈夫なの?」
「はい」
「もし、助けが必要になったら遠慮なく連絡しなさい」
「有り難うございます」
「葵も半兵衛と連絡を絶やさぬように」
「はい」
「半兵衛、政秀寺の沢彦和尚に会っていきなさい。これは命令です」
「はい。承知しました。信長様は良いのですか」
 半兵衛は、信長には会わないつもりではあったが念のために聞いてみた。
「信長様は良いです。半兵衛にその義理は無いでしょう。信長様が話を聞けば、詳細を聞こうとするに違いありません。詳細を知っていて何もしなければ、信長様は家臣に示しがつきません。だからと言って、尾張が美濃に攻め込んだら、半兵衛の意図とは違う結果になるでしょう?私も詳細は聞いておりませんし。まあ、知らない方が良い事もあるのですよ」
 胡蝶は微笑みながら言った。

 その後、政秀寺で沢彦に会った竹中半兵衛は、相手が斎藤道三である事に心底驚いたという。沢彦は、思い出し笑いをしながら、胡蝶に話して聞かせたのであった。

 コト(事実)よりもヒト(好き嫌い・実績)が優先される組織風土を属人風土、あるいは属人文化と呼ぶ。この状態になると意見や主張の正誤は、その内容(コト)ではなく、誰が言ったか(ヒト)で決まるようになる。
 この組織文化は組織を構成する一人一人の正義感や倫理観が正常でも、組織的な不正や違反を引き起こす。ごく一部のヒトの倫理観や正義感の欠如、或いは、知識の欠如により「間違ったコトや不正なコト」を行った場合に、そのヒトの地位や過去の実績を理由に、「間違ったコトや不正なコト」が正しいと誤認され、組織内に誤りや不正が引き継がれる。属人風土・属人文化は、誤認や不正・腐敗の苗床となるのである。
 組織内に、一旦、属人風土・属人文化が形成されると、一部を更迭して入れ替えても、内部から補充される人は大抵、属人風土・属人文化の人であるため、状態は変わらない。属人風土・属人文化を素早く変える唯一の手段は「総入替え」である。但し、総入替えをすると過去の経緯や既存のルールにうとい者ばかりになり、しばらくの間、会社を倒産させかねない様な大混乱が起こる。総入替え以外の方法による組織文化の変更は、通常、非常に長い時間がかかるため、環境の変化との競争になる。
 従って、最初から属人的な組織文化・組織風土にならないようにしなければならない。人が少ない段階から規則やルールを決める時にコトを基準にするように配慮し、運用において背信が起きないように配慮する。当然、組織トップとして自らの行動に規律を持たせないといけない。
 なおこの事は、ビジネスにおける組織風土・組織文化について考える時、一つの示唆を与える。既存企業が新しい事業を起こす時、既存の企業文化(企業風土)がビジネスと不一致を起こす事がある。このミスマッチはそのビジネスにおいて不利に、時に致命的に働く。しかし、その改善は容易ではない。既存企業の資産や規模は有利に働くが、マイナス面もあるという事。即ち、ベンチャー(新規企業)と既存企業を比べた時、ベンチャーは資産が無く不利だが、企業文化(企業風土)はビジネスに合ったものを最初から意図して作り上げる事ができる点で有利である。ベンチャーは組織文化・組織風土において、既存企業に対して優位性を作る事ができるのである。

 斎藤龍興の施策は、好き嫌いに基づく「総入替え」であった。組織トップの斎藤龍興が、長井隼人に依存し異論を認めなくなる。つまり、長井隼人をトップとする属人風土が形成され、事実上、長井隼人に言われるままの傀儡かいらいと化したのである。斎藤龍興は長井隼人に甘やかされる形で増長していた。これは将来、武田信玄が美濃侵攻した時にはその方が都合が良かったので放置された。
 快川紹喜は、将来も含めて武田信玄が美濃に侵攻するとは考えておらず、寧ろ、対織田信長を考えると美濃の平和を維持するには武田信玄の後ろ盾が必要と考えていた。だから、武田と繋がりのある長井隼人が、若い斎藤龍興を指導する状況を好ましいと考えていた。永禄別伝の乱で斎藤義龍と対立していた事を考えれば、快川紹喜にとって大きな改善であった。
 だが、事実上の「総入替え」と「方針の大転換」は、美濃の家臣を激しく動揺させた。

 1564年2月、木曽路が雪に覆われ武田の大軍が動けない時期を狙い、安藤守就と竹中半兵衛は少数の手勢を引き連れ強襲すると、斎藤龍興を城外に追い出し稲葉山城を占拠した。
 この話を聞いて、胡蝶はとても驚いた。そんなことができるとは思っていなかったからである。もっと平和的な手段を想像していた。だが、胡蝶が思っているよりも事態は深刻で、胡蝶が想像するような手段は既に実行不可能となっていたのだ。
 美濃は半兵衛賛同派と龍興派に分かれた。斎藤龍興のご機嫌をとって既得権を得た龍興派は必死に抵抗し、事実上の内乱状態になった。安藤守就と竹中半兵衛はすぐに禁制を出して、民衆の混乱を鎮めようとした。数日後、斎藤龍興側からも禁制が出されて、一応の鎮静を得た。

 二人の稲葉山城の占拠を聞いた信長は、竹中半兵衛に「美濃の半分をやるから稲葉山城を譲らないか」と調略をかけたと言われている。しかし、竹中半兵衛はこの誘いに応じなかった。
  快川紹喜は、安藤守就と竹中半兵衛の稲葉山城占拠に激しく怒り、次の書状を飛騨禅昌寺に送っている。日付は二月で、稲葉山城占拠の直後である。

金華山城は、菩提城主竹中遠州の子・半兵衛、去る六日白昼奪取せり。伊賀守と両人して一国これを領す、(中略)恥を知らず義を存ぜざる者共、皆彼の両人の幕下に属せり、蒼天々々、恥を知り義を存じ、命をかろんずる者、太守に就く也、(以下略)

「明叔慶浚等諸僧法語雑録」より

 快川紹喜にとって、竹中半兵衛の行動は単なる不義・不忠であり、決して認められるものではなかった。なお、金華山城とは、稲葉山城(のちの岐阜城)である。伊賀守とは、安藤守就のことである。

 七月二十九日付けにて、竹中半兵衛の名で立政寺に禁制が出されており、この時点で稲葉山城は約半年にわたり、安藤守就と竹中半兵衛が占拠していた事がわかる。その後、斎藤龍興に稲葉山城を明け渡しており、10月には斎藤龍興は稲葉城に戻っている事が確認される。
 これは武田信玄の動きに合わせたものと推測される。6月に飛騨の内紛に乗じるように武田信玄が飛騨へ侵攻を開始している。飛騨は美濃の北に接する隣国だが、親上杉と親武田で勢力争いをしていた。この頃、上杉謙信が上洛していたため、その隙をついた飛騨侵攻であった。
 上杉謙信は急いで帰国すると川中島へ出て牽制した。その動きを見て、8月武田信玄が飛騨から撤兵を開始している。結局、武田信玄は美濃に来る事は無く、上杉謙信と対峙した。それが第五次川中島合戦である。第五次川中島合戦は10月に終結する。
 安藤守就と竹中半兵衛は、飛騨撤兵の動きを察知した8月から第五次川中島合戦の情報を得る10月までの間に、稲葉山城から撤収して斎藤龍興に明け渡している。武田軍が諏訪から木曽路を南下して美濃に向かう可能性を危惧したのだ。そこで当初の計画通り、稲葉山城を明け渡すと、竹中半兵衛が全ての責任を負う形で、竹中半兵衛は近江に逃れた。 

 第五次川中島合戦が終わった後、武田信玄は快川紹喜を恵林寺に招いた。快川紹喜は恵林寺に移った後、美濃の平和は武田家の動向次第と考えて、引き続き美濃のために尽力する。甲斐・武田信玄の後ろ盾をより強固なものとするため、甲濃同盟に奔走している。
 甲斐の恵林寺に移った快川紹喜から一色龍興に送られた文書がある。

 貴国(美濃)と当国(甲斐)と会盟の儀、御懇の示諭、并に両種過当の至り珍重、特に御使僧として汾陽寺遠路寒天の光儀、即ち同道致し、参府せしむるの処、(以下略)

関市・長春寺「高安和尚法語衆」より

 汾陽寺とは、汾陽寺住職の事であり、斎藤龍興の使者である。
 同様に、快川紹喜から武井夕庵に送られた文書もある。

 貴国当国、終始に表裏無く、堅く入懇たるべくの誓詞、奉行従り当寺迄申し越され候、其の写これを進じ候、貴国従り亦此の如き写、愚老迄誓納し来れば、即ち彼の本文進ずべく候、(以下略)

関市・長春寺「高安和尚法語衆」より

 武井夕庵とは、斎藤龍興に仕える文官の一人である。後に信長にも仕え、茶人としても活躍した。
 甲濃同盟の時、斎藤龍興は18才であり、武田家に輿入れさせる娘は居ない。武田から娘を貰う形は人質と解釈されかねず実現しない。従って、誓詞を交わすことにより、神仏に甲濃同盟を誓ったのである。僧侶である快川紹喜にとっては、婚姻よりも重く受け止めていただろう。
 しかし、武田信玄と一色龍興の甲濃同盟はあまり知られていない。甲陽軍鑑にも触れられていない。寧ろ無かったものとして扱われているように感じる。隣国との同盟を高坂弾正が知らないとは考え難い。だとすると、甲濃同盟は武田家では極めて軽視されていたか、快川紹喜の思いとは裏腹に、いずれ破棄して美濃に攻め込むつもりだった可能性がある。信長が先に落したため、実現はしなかったが今川氏真に対してやったように美濃を攻略するつもりだったのではないか。

 稲葉山城を攻略した半兵衛の噂は北近江にも伝わっており、竹中半兵衛は食客の身分で迎えられた。北近江で1年ほど過ごした後、斎藤龍興に気付かれないようにこっそりと美濃に戻った。
 その後、半兵衛は沢彦と親交を温めるようになる。竹中半兵衛重治は今で言えば、兵法オタクであり、小さい頃から本の虫であった。軍法極秘伝書を書いている程である。一方で、沢彦(斎藤道三)も兵法書から儒教経典、仏教経典まで学び、印可状を得る程にハマった男である。趣味の話でウマが合ったのであった。

(次回、ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑰に続く)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)

参考:第4章

書籍類

 信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
 甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
 武功夜話・信長編    加来耕三・訳
 斎藤道三と義龍・龍興―戦国美濃の下克上  横山住雄・著
 武田信玄と快川紹喜           横山住雄・著
 天下人信長の基礎構造  鈴木正貴・二木宏・編 の3章 石川美咲・著
 近江浅井氏の研究   小和田哲夫・著

  属人思考の心理学 岡本浩一・鎌田晶子・著

インターネット情報

小氷期
 https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2017/20170104.html
 https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/656/656PDF/takahashi.pdf

Wikisouce: 美濃国諸旧記  編者)黒川真道
Wikisouce: 濃陽諸士伝記  編者)黒川真道

Wikipedia


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