ビジネスメンター帰蝶の戦国記㉕

あらすじ 
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第5章は、初心を見直した信長の目標に向けた動きとなります。美濃攻略を終え、『天下布武』とそれに向けた動きです。上洛に向けた状況整理、方針の確認です。
 第6章は、元亀争乱です。上洛のあたりから関係する人物が急増し資料確認に時間がかかっています。背景・経緯が想定外に複雑です。そのため公開のペースが若干遅くなります。次回、第6章第1節は2月1日予定。


第5章 天下布武
    ~初心回帰~

第6節  出来る事出来ない事・上洛後の見通し

 上洛戦の見通しを確認すると次は上洛後の統治である。
「あと、考えておく必要があるのは、幕府の運営でしょうね」
 胡蝶が話を進めた。
「運営と言ってもいろいろあろう」
「そうですね。光秀はどう考えるの」
 胡蝶は信長の質問を光秀にふった。
「大きく言えば、幕府軍とそれを維持するための幕府の財政、それと恐らくは多くの相論が持ち込まれると思われます」
「幕府軍か。存在しておるのか」
「いいえ」
「ならどうする」
「・・・。」
 明智光秀は口をつぐんだ。
「信長様、光秀殿をいじめないでください。そんなものがあれば、幕府軍を率いて上洛しておられます」
 辛そうな顔になる光秀に胡蝶が助け舟をだした。
「わかった。わかった。つまり当面は、幕府軍とは、我が織田軍が代行するという事よな」
 信長が念を押すように言う。
「光秀殿。そうなると織田家が幕府軍を代行する分の負担も考慮が必要になりますね」
 胡蝶の言葉に光秀は黙ってうなずいた。
「もし、六角承禎じょうてい殿を討たねばならない場合ですが、負担分をまかなうために、六角氏が治める南近江を当面、領国として扱いますが良いですね」
 追い打ちをかけるような胡蝶の言葉に光秀は再び黙ってうなずいた。光秀にそれを決める権限はない。しかし、信長の武力を頼みに上洛する以上、交渉の余地がない。信長が軍を退けば、南近江に統治の空白が生まれるだけである。光秀がうなずいたのを見ると、胡蝶は信長に向き直って、信長に質問した。
「そうすると、尾張や美濃のように、荘園制度を見直して、郷や郡を単位とした知行に置き換えるのでしょうか?」
「領国となればもちろんそうする」
「尾張でも相当に反発がありました。今度の相手は延暦寺ですよ」
「やらねば、中間搾取や二重徴収がなくならん。当面の借り物とは言え、幕府の為にも庶民の為にもならない」
 光秀は驚いた表情を見せて二人のやりとりを見ていた。幕府の力では南近江は支配できない。だから、軍事負担分の借用を名目に仮領国として預かり、地ならしをしようというのである。

 課税逃れのために、寺社に持ち込まれた土地が寺社の荘園と認識され、一方でそれを認めない地主(土豪)がいる。その地に農民が居れば二重徴収され、農民がいなければ耕作放棄地となる。検地や区画整理をしないと、農業生産量が増えないのだ。
 時期としては後(1581年)になるが、信長から細川藤孝、明智光秀に送った書状が残されている。「郷切」が「郷(村)ごとに」を意味する言葉である。紛争を無くすために、制度疲労を起こした中世の荘園制度から、分かり易い「郷切」を進めていた事が確認できる。 

 (前略)矢野本地相渡分事、員数無相違郷切仕、無申事候様候て可然候、可成其意候也、
 九月十日 信長(朱印)
  長岡兵部大輔殿  (細川藤孝のこと)
  惟任日向守殿   (明智光秀のこと)
********************
 (前略)矢野に本領(本地)を渡すに際しては、検地のデータ(員数)を決して祖語の無いよう郷(村)ごとに確定し、紛争が生じないように手続きするのが適切である。そのように対応するように

織田信長文書の世界 より

 区画整理(検地)では、所有地の交換が行われる。しかし、農業は土づくりである。耕作放棄地も対象である。単純に同じ面積で交換しても、手入れの行き届いた農地とそうでない農地では価値が大きく異なる。隣に耕作放棄地があると害虫の巣窟そうくつになるので価値が落ちる。検地の精度も怪しく、不平不満は必ず発生する。信長が尾張でそれを行った時、まだ畏怖の信頼が無かった為、多くの不満を受けたのである。政秀寺古記において、『機髄に候を悪く成らせ給う事、いよいよ頼母敷げもなく君臣の間も不和に成り行き候へば』を引き起こした原因の一つであった。
 今回は武力による進軍をするので畏怖の信頼は築ける。反対する領主(六角氏)は駆逐されるので文句を言う者はいない。検地や区画整理をした時に文句を言い反発するのは既得権者、主に寺社である。特に地元の金持ち、延暦寺である。

 延暦寺は当時、最大財閥である。先立つこと1508年、撰銭えりぜに令が当時最大の金持ちとされる8つの集団に発令されている。撰銭令とは割れた貨幣や読めなくなった貨幣などの取り扱いを決める政令である。8つの集団とは、国内の経済団体のうち上から8つという、当時の日本経済を牛耳る財閥のようなものである。それは大山崎(自治都市)、堺(自治都市)、細川高国(幕府管領職・撰銭えりぜに令を出した人)、大内義興よしおき(北九州の大名・上洛して管領代・山城守護)、興福寺、比叡山三塔、山門使節、青蓮院の8つである。8つのうち3つ、比叡山三塔、山門使節、青蓮院が比叡山延暦寺の系統であり、全国に荘園を持ち、金貸し(土倉)を経営し、所領に関所を作って中間搾取を行う巨大な財閥を形成していた。その上、信長の頃の天台座主は正親町天皇の異母兄弟、曼殊院覚恕まんしゅいんかくじょであり、朝廷の後ろ盾がある。
 なお、細川高国は1527年の桂川原の戦いで柳本賢治や三好元長らに敗れ1531年に死去。大内義興は1528年に死去し、大内家は尼子氏と戦って力を失っていた。大山崎は堺に比べると小さかった。よって比叡山系の3つ、興福寺、堺が主に警戒すべき財閥・・であった。うち、興福寺は松永久秀が拠点とする大和にある。
 南近江に関して言えば、疲弊する農民が二重徴収されないように信長が区画整理すると、邪魔するのは金持ち財閥の比叡山延暦寺なのである。

「あの数の僧兵、対立したくありませんね」
「まったくだ。だが、徴税の整理は必要な事だ。中間搾取さくしゅが多いと民が貧しくなり一揆が起きる」
「覚悟は決められたのですね」
 信長は黙ってうなずくと、何か小さくつぶやいた。胡蝶は、光秀に向き直り、念を押すように尋ねる。
「改めて聞きますが、上洛したら南近江をすぐに幕府直轄地としますか?」
「落ち着いてから、正式に義昭様より御沙汰されると思いますが、それまでは信長様にお任せしたいと思います」
 南近江の面倒臭さを感じ取った光秀は、幕府直轄地にしても、統治に多大な労力が必要な事を理解して、当面、信長に任せる事に異論は無かった。「南近江以外は面倒見きれないぞ」
 畿内を織田軍で見るには人手が足りない。河内には三好義継、大和には松永久秀がいる。彼らに任せるべきであり、任せたい。
「承知しました」
「ふむ、それで財政はどうする」
「直轄領からの収入でなんとかならないかと考えておりましたが・・・」
 比叡山延暦寺を抱える南近江は信長が当面は面倒をみてくれる。残る畿内を幕府直轄地として収入を得なければならない。それとて、容易な話とは思えなかった。そもそも長い戦乱の中で領有権が何度も変わり、誰の知行地か分からなくなっている。三好派の残党がいくらかは残るだろうし、しばらくは混乱するだろう。
「何もしなければ何も変わらんぞ。税収入は減る一方だ。中間搾取は増え、耐えきれなくなった農民が逃げるか一揆だ。義景殿を見てきたのであろう。如何する」
「・・・」
 朝倉義景が一向一揆に手を焼いて上洛できないから足利義昭は信長を頼って光秀を送ったのだ。上洛したら朝倉義景の立場に足利幕府が置かれる。そして加賀一向一揆が延暦寺・石山本願寺に置き変わる。
「区画整理をして農民が理不尽な取り立てを受けないようにせねば、税収は減る。関所が多ければ物価は高くなる。今までと何も変わらん。それでは自前の幕府軍はいつまで経っても持つ事ができん」
「・・・その通りかと存じます」
 光秀が声を絞り出すように答えた。信長は小さくため息をつくと言った。
「すぐに出来るとは思わん。当面は土倉(金貸し)でもやるか?」
「元手が御座いません」
「なら貸してやる。だが、心せよ。土倉の競合は寺社だ。区画整理を邪魔するのも寺社だ。僧兵を連れて強訴ごうそしてくるぞ」
 この頃、京の土倉(金貸し)の大部分は延暦寺系列であった。
「承知しました。義昭様や優秀な側近がおります。知恵を集めて精進します」
「しっかりやれ。わしは領国経営だけで十分だ」
 美濃がようやく落ち着いてきたところへ、上洛。南近江を処理しなければならない。それだけでも手一杯である。まして、幕政に手を出す余裕は無いと考えていた。
 光秀にこれだけ念を押しても、信長も胡蝶も、まだ不安を感じていた。

 二人の知る限り、幕府の運営は相当に心許こころもとない。
 前の将軍・足利義輝は長い間、三好長慶(細川高国と戦った三好元長の嫡男)との権力争いでみやこに住む事ができなかった。ようやく京都に戻ったのは1558年の事である。その後、みやこでの将軍職在任中、それまでの幕府官僚を嫌って、多くの官吏を追放している。そのため相論(訴訟)が持ち込まれても、調整・調停が上手く機能していない事を信長は伝え聞いていた。
 象徴的な事が改元である。元号の改元は朝廷と幕府の協議事項であった。特に中国から伝わった讖緯しんい説の中で、「甲子きのえね革令かくれい」の年、「辛酉かのととり革命」の年には、政治体制が大きく変わるとされる。そこで改元する事で革令や革命を起こしたと見なし、朝廷(天皇制)は維持できると考えられていた。
 特に十干十二支の60年周期の中で最初の年となる甲子は必ず改元が行われてきた。この例外が永禄七年である。朝廷(正親町天皇)を囲い込む三好長慶と将軍・足利義輝が対立したことから永禄七年(1564年)の甲子改元が行われなかった。当然、足利義輝はその意味を知っている。1558年の弘治から永禄への改元の時は、足利義輝を都から追放した三好長慶と朝廷が相談して行われた。これに足利義輝は激怒して、前の元号・弘治を使い続けた。
 意味を知った上で足利義輝が甲子改元しなかったため、朝廷を軽んじたと見られた。そのため永禄八年(1565年)の永禄の変で足利義輝が討たれた時、朝廷や公家くげはあまり批判的ではなかった。むしろ、甲子革令は、朝廷革令の代わりに幕府革令が起きたと理解され、好意的に受け止める向きさえあった。なお明治になって一世一元のみことのりにより天皇在位中の改元が廃止されている。
 足利義輝が将軍だった時、既に幕府の運営がガタガタだった。その後も将軍不在に伴う実務の体制が無かった。ここにも幕府の運営には組織論的大問題を抱えていた。

「幕府の運営の中心は義昭様になるのでしょう?大丈夫なのでしょうか?」
「十兵衛。幕府のまつりごとはそなたらが中心となって回すのであろう?」
 信長も気になって尋ねた。面倒事を持ち込まれたくないのだ。信長の性分は現代で言えば〖官公庁や大企業への就職を嫌がる起業家が成功した姿〗とイメージが重なる。
「義昭様が中心となり、和田惟政殿や細川藤孝殿、もちろん私も側面からしっかり支える所存しょぞんにございます」
「しっかり頼む」
 当初、光秀は幕府の政にも信長の関与を期待していた。しかし信長が幕府の政から距離を置く姿勢は、光秀にその言葉を言わせなかった。
 こうして、上洛後の見通しを光秀と共有した。

  光秀は、越前に戻ると、足利義昭、細川藤孝らに信長との会談、上洛の見通しについて報告した。足利義昭は、明智光秀の報告を受けて、信長もまた足利幕府復興を期待している事を察した。そこで足利義昭は、身動きが取れない朝倉義景を見限って、信長を頼る事を決断する。
 1568年7月、明智光秀の上司となる細川藤孝を仲介として、足利義昭は越前から美濃の岐阜立政寺に移り住んだ。この事は、朝倉義景の面子メンツつぶし、朝倉義景は不満をこじらせるキッカケとなる。
 1568年9月、足利義昭を奉じて、信長は上洛を開始する。箕作みつくり城の攻略にはいくらか苦戦したが、六角親子が逃亡して決着する。やはり信長は首領を殺すようには指示していないようである。なお、これらの戦いには徳川勢や浅井勢が参戦しているが主力ではなかった。仮とは言え、このあと信長が南近江を所領とするので彼らに負担させなかったのだ。
 信長は京に入る前に、三井寺に陣を置いた。山門流延暦寺と対立する事が多い寺門流三井寺である。入京の前に兵に休養を取らせる事と山門流延暦寺の情報を得る事が主目的であった。また、数日間留まっている間に南近江の治政と畿内(阿波三好勢の動静)の状況把握に時間を割いた。なお『信長公記』では26日に着陣したことになっているが間違いである。『言継卿記』には23日と記載され、直江景綱宛て書状では「来る二十四日(義昭)御渡海の予定」とある。
 入京すると、民から熱烈な歓迎を受けた。そのまま足利義昭とともに畿内を制圧する。10月2日には池田城を陥落させている。
 松永久秀と通じた村上武吉は毛利の支援を取り付け、上洛に合わせて備前児島で三好長治の家臣・香西又五郎と戦って勝利している。これにより阿波三好家を主力とする三好勢は戦力を分けざるをえなくなる。戦力が分散した三好勢は戦力を集中した織田軍に次々と撃破された。松永久秀は、村上武吉の軍功を賞賛する書状を送っており(『屋島村村上文書』)、足利義昭からも感状が送られている。
 さらには9月30日三好三人衆に擁立されていた十四代将軍・足利義栄が病没する。これが決定的に三好三人衆の戦意を失わせた。足利幕府という錦の御旗を失ったのだ。そして征夷大将軍の座が再び空席となった。

 10月22日、京に戻った足利義昭が征夷大将軍に叙任される。足利義昭は、信長に副将軍か管領の地位に就くように求めた。しかし、信長はこれを固辞する。足利義昭の意図は、足利幕府体制(将軍ー管領ー大名)を再構築(三管領の復活)するための提案であったが、これが朝倉義景の逆鱗に触れることになる。
 管領・斯波氏はもともと越前・尾張・遠江の守護であった。織田氏は越前の織田庄を名字とする一族であり、斯波氏と共に尾張に移り住んだ朝倉家と同格の家系である。その後、朝倉氏は斯波氏と争い、朝倉義景の先代、朝倉孝景の代に事実上の守護と同格の扱いを受けるようになる。そしてついに相伴衆の仲間入りをしていた。朝倉義景は、斎藤義龍が一色の家督を得たように家格を上げたいと考えており、斯波氏が持っていた管領を得るつもりであった。そのために松永久秀と交渉して足利義昭を保護し、足利義昭の元服を手伝っている。そして上洛によって管領になる事を目論もくろんでいた。ところが一向一揆に手間取っている間に、信長に美味しいところを持っていかれた。しかも信長は織田家の本家筋ではなく、格下三奉行の血筋であり朝倉義景から見て格下である。信長が固辞して信長が管領にならなかったが、信長に激しく嫉妬し、恩を忘れた足利義昭に対しても叛意はんいを持つようになる。

 また足利義昭は五畿内の知行を信長に提案した。五畿内とは河内、和泉、山城、大和、摂津を指す。だが信長はこれも辞退し、大津、草津、堺の代官を設置する事を望んだのみであった。義昭は体裁良く、面倒くさい事を押し付けようとしたのだが断られたのである。実際、足利義昭は上手く知行割り当てをする事ができず大混乱を引き起こしている。
 「五畿内」には、松永久秀や三好義継、畠山秋高らの所領が含まれている。松永久秀や三好義継、畠山秋高らは同盟相手、しかも官位・官職(官途)が上である。一方、副将軍や管領の地位を受けなかった時点で信長の地位は幕府の中では外様大名である。これらを信長が管理できる筈もない。
 (『言継卿記』元亀元年四月一日条に「信長以下外様衆」とあり、幕府における格式は実際に外様衆扱いだったと確認できる)
 そこで、信長は足利幕府が管理できない三つの港を代官する事を逆提案した。信長の仮領国・南近江から大津と草津。そして堺。
 堺は阿波三好が上陸する三好三人衆側の要衝であり放置できない。しかし堺は元8大財閥のひとつであり、この時もその力が強過ぎて足利幕府には管理不可能の自治都市であった。
 もちろん信長にとって負担だけではない。港は大規模な物流の拠点となるので税収が大きく、軍需物資の集積地でもある。物流拠点としてこれら三つの港を管理する事で、実利を得られる。
 実際、上洛戦における信長の負担は小さくなかった。だから上洛戦において義昭・織田軍は「制札銭」の納付に対し多くの禁制を発行して安全を保証している。元8大財閥のひとつ、大山崎(又はその近郊)では「取物共繁多也(略奪が多く)」が起きている(『言継卿記』)。そして畿内を制圧すると本願寺には5千貫、堺には2万貫の矢銭を要求した。非協力的であり、且つ、裕福な組織は規模に応じて禁制購入相当(制札銭相当)の負担を要求したのである。警察機構の無い戦国時代においては、当然の要求であったが、本願寺側は単に迷惑と感じていた。

 出来る事出来ない事を見極める事は何事においても重要である。ただし、これには注意すべき事がある。自己実現という現象である。特に、本来なら努力すればできるのに、出来ないと思うから諦めて真剣になれず、結果として出来ないという事がある。だから、エフェクチュエーションの考え方が重要なのである。(ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑪参照)
 ビジネスで言えば、コア(競争力の根源)とノンコア(付帯実務)の見極めと言える。これを間違えると競争力を失うことになる。
 信長にとって領国がコアであり、幕府はノンコアだったのだろう。

(ビジネスメンター帰蝶の戦国記㉖に続く)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)

参考:第5章

書籍類

 信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
 甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
 武功夜話・信長編    加来耕三・訳
 武田信玄 伝説的英雄からの脱却  笹本正治・著
 歴史図解 戦国合戦マニュアル 東郷隆・著 上田信・絵
 富士吉田市史資料叢書10 妙法寺記 より 御室浅間神社所蔵勝山記
 楽市楽座はあったのか 長澤伸樹・著
 織田信長のマネー革命 武田知弘・著
 國分東方佛教叢書 第六巻 寺志部 鷲尾順敬・編 (政秀寺古記)
 春秋左氏伝 上    小倉芳彦・訳
 織田信長の古文書  山本博文・堀新・曽根勇二
 三好一族と織田信長 天野忠幸・著
 古事記       倉野憲司・校注
 日本書紀      井上光貞・監訳 笹山晴生・訳
 明智光秀・秀満   小和田哲男・著
 歎異抄       千葉乗隆・訳注
 足利義昭と織田信長 久野雅司・著
 松永久秀と下剋上  天野忠幸・著
 織田信長文書の研究(上) 奥野高廣・著
 大判ビジュアル図解 写真と絵でわかる日本の合戦 加唐亜紀・著
 群書類従第二十輯 合戦部 より 細川両家記
 太かうさまくんきのうち  太田牛一・著
 言継卿記         山科言継・著
 多聞院日記
 織田信長文書の世界 
    公益財団法人永青文庫・熊本大学 永青文庫研究センター 編

 サボタージュマニュアル  越智啓太・監訳解説 国重浩一・翻訳
 エフェクチュエーション  サラス・サラスバシー・著

インターネット情報

小氷期
 https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2017/20170104.html
 https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/656/656PDF/takahashi.pdf
戦国時代の奴隷
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/00bc52b26b9fa6e0fde2415f5f0ef4cb822ae462
 https://sengoku-his.com/218
本美濃紙
 https://www.city.mino.gifu.jp/honminoshi/docs/about.html
公事赦免令
 https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000030/ht000410
SIMPLE SABOTAGE FIELD MANUAL (1944年米国戦略情報局:OSS )
 https://www.hsdl.org/c/abstract/?docid=750070
鵜飼い
 https://www.ukai-gifucity.jp/history.html
国立公文書館デジタルアーカイブ
 続応仁後記
 足利李世紀
その他
 Wikisource :蓮如上人御文章_(意訳聖典) 
 Wikipedia 

https://note.com/a_isoiso/n/nf8b09ac65a10


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