ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑱

あらすじ 
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第4章は美濃攻略です。木曽川以外に両者を分ける障害物が無いのに、信長は美濃攻略に7年もかけています。それは何故なのか?周辺各国の情勢や同盟関係など、様々な要因が複雑に関係しているようです。


第4章 美濃攻略
    ~組織論をふまえて~

第6節 タイミングをとらえる・甲尾同盟

 足利義秋の上洛の目論見は、斎藤龍興と六角義賢が翻意して失敗に終わる。上洛しようとした信長軍を斎藤龍興が攻めたのだ(河野島の戦い)。これで信長は尾張に撤退せざるを得なくなった。河野島の戦いの詳細は不明である。唯一、斎藤家家臣の戦勝報告(連判状)『中島文書』が残されており、快川紹喜に送られたといわれている。その文中で、織田軍の多くの者が増水した木曽川で溺れ、「信長は天下の嘲笑を受けている」と伝える。なお、信長公記はこの戦いを記していない。ほぼ同時に、浅井長政は六角義賢と戦い(蒲生野の戦い)、こちらは浅井長政が勝利している。
 これらの動きには、足利義秋に対立する三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の調略があったと推測される。三好三人衆は足利義栄よしひでを次の将軍に推していた。六角義賢は以前に三好長慶(永禄七年没)と和睦しており、それを継ぐ三好三人衆と縁が残っていた。六角義賢と斎藤龍興は、対浅井で同盟している。なお、永禄八年十一月、松永久秀は、三好三人衆と対立し、大和多聞山城に入って対抗している。
 足利義秋は六角義賢の翻意を受けて琵琶湖を渡り、若狭武田氏の武田義統たけだ よしむねを頼っていった。
 だがこの後、すぐに武田義統による上洛を断念し朝倉義景に身を寄せる。若狭武田氏は内紛が続いており、越前の朝倉氏の支援を受けている状況にあったからである。そこで明智光秀と出会う。運命の妙である。

 この時、武田信玄が足利義秋の支援要請に応えたかどうか定かではない。甲陽軍鑑にこの時の記載は無い。少なくとも上杉謙信との戦いは継続していた。しかし、足利義秋の支援要請に応諾した上杉謙信と戦っていても、三好三人衆の下に付く事も良しとしなかった。表向き静観を決め込んでいる。
 信長は、長らく武田信玄の影を警戒して美濃攻めに手をこまねいてきた。しかし、河野島の戦いで斎藤龍興は足利義秋に刃を向けた事になり、信長に三好派・斎藤龍興を攻める大義名分が与えられた。

1566年(永禄九年)8月30日
「龍興の阿呆め」
 そう言うと信長は唇を噛んだ。前日、奇襲された河野島の戦いを思い出したのである。
「武田信玄との同盟を急ぐぞ」
 元々は、足利義秋の支援要請に武田信玄と上杉謙信が同調すれば、それに合わせて武田信玄と同盟を結び、足利義秋の上洛と政情の安定化を信長は期待していた。しかし、河野島の戦いで龍興が三好派となり、美濃を落とさなければ上洛できなくなった。仮に伊勢経由(東海道)で上洛したとしても、その隙を狙って斎藤龍興が尾張を攻めるからである。
 しかし、美濃を攻めるには、武田信玄が出てこない事が必須条件である。そのため、武田信玄との同盟の目的は、もともと足利義秋の上洛だったが、美濃攻めのための準備に変化したのだった。
「信長様。確かに義秋様からの薦めもありますが、武田信玄は承知しますでしょうか」
「恐らくは承知する」
「何故でしょう?義秋様に返事をしていないのでしょう?」
「武田信玄も守護として体裁を気にする。義輝公を討った三好家の下につくとは思えない。しかも義秋様が左馬頭になったというから、次期将軍であろう。そうなると三好派だと逆賊を問われかねない」
 永禄九年四月、足利義秋は朝廷から「従五位下左馬頭」に叙任されている。足利家において、左馬頭は将軍の後見人や次期将軍に与えられる官職である。足利義栄もこの後の十二月に「従五位下左馬頭」に叙任され、二年後の永禄十一年第十四代将軍となる。但し、この時点で「従五位下左馬頭」は足利義秋だけなので、朝廷は次期将軍に足利義秋を定めていると認識されるのである。
「では、何故、返事をしないのでしょう?」
「時間稼ぎか、あるいは上杉謙信との関係か」
「時間稼ぎとは?」
「どこかを攻めるつもりなのではないかと考えておる」
「どこかとは?」
「上杉か、今川か、あるいは、上野の長野」
「上杉と直接戦えば、時間稼ぎどころか、義秋様に反旗を翻して三好派とみなされます。そして、今、今川を攻めれば、周囲が全て敵になります。それもないでしょう」
「龍興を除けばな。だが、龍興の助力を求めることは考え難い」
「また、それは何故?」
「ひとつには遠い事、ひとつには六角と同盟関係にあって既に三好派と思われている事、ひとつには・・・」
「どうしたのですか?」
「・・・胡蝶には言い難いが家格よ。武田家のように代々守護の地位を維持してきた武田信玄が、龍興を同格とは見てはおらん。成り上がりの若輩者、随分格下に見ておるだろう」
「それはそうでしょうね」
 胡蝶もまた、成り上がり斎藤家の娘と見られていることは知っていた。
「だから、今川氏真のように家格が同格なら、助力と称して道具のように使い倒す事ができる。格下の龍興に助力を頼むような事は自尊心が許さない」
「織田家はどうなのでしょう」
「格下に見ておろうな」
 二人は目を合わせると、クスっと笑った。
「上杉とも今川とも戦わないとすると、・・・」
「上野の長野だろうな。直接、上杉謙信と戦わなければ言い訳できるからな。武田信玄は口だけは上手い」
 上野の長野とは、長野業盛である。長野家は関東管領を主君としており、以前は上杉憲政。この時は1561年に上杉憲政から上杉姓と関東管領を継いだ上杉謙信(長尾景虎)に忠義を向けていた。
 長野業盛の父・長野業正は、武田信玄を退けてきた猛将であった。その長野業正が1561年末に死ぬ。長野業正の死を知った武田信玄は、上野に激しく調略を続けていた。この頃には武田信玄による調略が進み、間もなく軍を向けるつもりだったのである。
 だからこそ、足利義秋の書状に対し、上杉謙信が即答したのに対して、武田信玄は即答を避けたのだ。領土を増やす事が優先なのである。
「私たちとは反対側ですね」
「うむ。もし、長野を攻めた時に反対側から義秋様に応諾した上杉と呼応して、織田・松平が攻めればどうなる」
「いくら武田信玄でも厳しいでしょうね。今は、今川氏真も疑心暗鬼ですから、これを機に我らにつくかもしれません」
「そうだな。恐らく次は氏真が狙われるだろうからな」
「今川氏真も昨年の一件で武田信玄に疑念を抱いているでしょう」

 1565年10月武田家ではお家騒動が勃発している。武田信玄の暗殺未遂である。この謀反に関わったとして嫡男・武田義信が甲府東光寺に幽閉される。謀反の理由は、いくつか説があるが、大きな理由の一つが、今川氏真への対応と推測される。桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にして、北条氏康や上杉謙信と戦うよりも、領土拡張には遠江・駿河が武田信玄にとって一番魅力的になったのである。
 ところが、嫡男・武田義信の正室は今川義元の娘であり、今川氏真とも仲が良かった。だから、そうした父・信玄の野心に反発したものと思われる。

 では、何故、武田信玄は遠江・駿河を欲したのか。
 戦国時代は気候が小氷期にあり、現代よりも数度平均気温が低かった。そのため山岳地や東北地域は食料生産量が少なかった。山梨県旧勝山村の御室浅間神社所蔵『勝山記』によると、永正元年(1504年)には、6月7月(夏)に富士山に5回雪が降ったと記録される。1501年から1555年の間、餓死や飢饉という記載が14回出てくる。作毛悪しなどを含めば、ほぼ3年に1回以上が激しい不作である。生産地から食料を購入しようにも当時は数多くの関所があり、食料が必要な地域に届く頃には価格が高騰する。他国も食料不足の場合、買えない事もある。
 そうなると国内で領主への不満が高まる。国内の不満が高まったら他国の責任だと言って戦争を始める事は古今東西よくある話。足りない食料を外から調達する手段が戦争であり略奪なのである。他国に攻め込み「我々に戦争を始めさせたのは他国の責任である」と主張する。武田の領地の大部分がそのような山間地域である。武田家にとって食料生産量が多い地域(平野部)を領有する事は悲願である。戦争を止める選択肢は最初から無い。
 甲府に近い平野部は上杉謙信・今川義元・北条氏康が居て手が出ない。だから甲府から遠い美濃を次点として武田信玄は狙っていた。しかし桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、後を継いだ今川氏真は力不足。富士山信仰で街道整備され、距離が近い駿河・遠江の方が、美濃よりもはるかに魅力的になったのだ。
 ただし武田信玄にとっては単に優先順位を変更しただけのつもりである。上野の長野を落とし、次に駿河・遠江の今川を落とし、美濃の斎藤を落とす。桶狭間の戦いから既に6年が経過している。信長が武田信玄を警戒しているとは考えず、単純に信長が戦って勝てないから美濃を攻略できないと考えていた。だから美濃も取れると考えていた。
 1566年9月末、早速、武田信玄は2万の軍勢で上野の長野業盛を攻め、箕輪城を落としている。

「武田家の重臣のうち、今川贔屓ひいきは誅殺されてしまったからな」
「武田義信殿は、甲府東光寺に幽閉されたのでしたね」
「もっとも、仮に出てきても、もはや義信を支持する側近が居らん」
「武田と今川の信頼関係は破綻していますね。誰が家督を継ぐのでしょう」
「まだ義信の可能性は残るが、次男の勝重は目が見えん。その次は勝頼だな」
「諏訪の姫の子でしたね」
「頼れる側近のいない義信か、遺恨が残る諏訪の姫の子・勝頼か」
「我らが同盟を持ちかけるのに義信は無いから、勝頼一択ですね」
「うむ」
 なお、この後、1567年に武田義信は病死している。
「もし、武田信玄が長野を攻めるなら、背後の憂いを除きたい筈だから、織田との同盟は魅力的に見えるでしょうね」
「長野を攻めないなら、単に迷っているのか、本当に三好につくつもりか」
「その場合はどうされますか」
「上杉と組んで諏訪を挟む。如何に武田といえど、上杉に背後を取られて織田・松平と戦う事はできまい。飛騨攻めの時ですら、兵をひいたのだ」
「そうでしたね。でも、そこまで追い詰めたら龍興を頼るのでは?」
「伊那の遠山は既に我らについている。だから、頼った所で龍興はすぐに加勢できん」
「武田信玄はそれを知らないのではありませんか」
「判るさ」
「あぁ、そうでした。苗木の娘でしたね」
 苗木の娘とは、父が東美濃の苗木遠山氏の遠山直廉で、母が織田信長の妹である。つまり、信長の姪にあたる。その娘を信長の養女として嫁がせるのだ。その時点で、遠山家が織田家についた事が判るのだ。また、信長の叔母、おつやが岩村の遠山景任に嫁いでいる。伊那の領主は織田家と縁が深くなっているのだ。

「それに相手は勝頼だ。諏訪の姫に生ませた子だ。伊那から諏訪なら比較的近い。国人衆の間を取り持つのにも良いだろう」
「甲濃同盟との関係はどうなるのでしょう?」
「美濃と尾張、両方と同盟を結ぶ事はできる。本来なら三国同盟だ。しかし今回は違う。龍興は我らを攻めた。両方と同盟の場合、一方が他方を攻めた時、どちらかに肩入れすれば、どちらかの誓詞を破る事になる。我らが美濃を攻めても武田信玄は援軍をだす事ができなくなる」
「つまり・・・どういうこと?」
「我らが美濃を攻めても、武田は出てこない。見て見ぬ振りという事だ」
 武田信玄と斎藤龍興は快川紹喜を通して甲濃同盟を結び、誓詞を交わしている。しかし、それを武田側は喧伝しておらず、信長も甲濃同盟については知らぬ振りを続けている。見て見ぬ振りをしても、体裁は傷つかない。
「武田信玄が出てこないなら、それで良いわ」
 1566年信長は武田との同盟のため、武田勝頼に信長の養女を輿入れさせる。甲尾同盟である。武田家側では織田と組む事に反対する家臣も多かったという。

 この婚姻は『甲陽軍鑑 品第三十三』では1565年(永禄八年)としている。これは1566年(永禄九年)の誤りと考えられる。この物語も1566年である。文頭の「永禄八年乙丑」を無視すれば、桶狭間の年(1560年)の暮れ(12月)を起点として、6年だから1566年と解釈すべきである。

 永禄八(⇒九)年乙丑九月九日に、織田信長公より、織田掃部かもんという侍を甲府へ遣わして伝えられた。(中略)
 その(=桶狭間の合戦の勝利1560年5月)余勢をもって、夏から秋にかけて尾張国を完全に支配し、暮(1560年12月)からは美濃国を攻略しはじめて今年で六年になる。たぶん今年から来年のうちには、美濃国も信長の支配下になるはずである。

甲陽軍鑑 品第三十三 勝頼公祝言(付)信長より進物

 更に、岩村城の遠山家が斎藤龍興に誓紙を出さなかった事を記す『中島文書・龍興四奉行連署状(永禄九年閏八月十八日付)』がある。文面から推測すると、永禄九年七月の時点で龍興は信長の上洛を阻止するつもりであり、信玄はそれを知って龍興に遠山氏からの誓紙の提出を指示(又は助言)したようである。

 七月以来、太守(信玄)へ龍興から報告する予定でしたが、遠山氏に対して、龍興と信玄とに忠誠を誓うという「誓紙」を出させる約束で、その提出を待っているが、未だその提出がない。ないままで信玄に話すべきか(快川和尚の)ご指導を仰ぎたい。

中島文書・龍興四奉行連署状

 もし、甲尾同盟が永禄八年なら、先に苗木遠山家の娘が輿入れしており、遠山氏は既に武田信玄に忠誠を誓っている。仮に信玄が上野を攻める準備として出させた誓紙だとしても、遠山氏のすぐ背後に同盟国の信長と龍興が居る。信玄には遠山氏の誓紙は必要が無い。甲尾同盟の後では不自然である。
 もし、甲尾同盟が永禄九年なら、龍興は信長上洛を攻撃する意思があり、信玄の指示(又は助言)で遠山氏に誓紙の提出を求めている。ほぼ同時期に遠山氏は信長から武田信玄との同盟のために苗木の娘を出す交渉をしていた事になる。「誓詞・誓紙」をたがえれば天罰が下ると信じられている時代である。中間に位置する遠山氏としては非常に困惑した事は想像に難くない。だから誓紙を出せなかったとすれば筋が通る。
 更に甲尾同盟は東美濃の遠山氏からの婚姻を伴う同盟なので、龍興は否応なく知る筈である。しかも快川紹喜は美濃の安定・平和を求めていた。もし甲尾同盟が永禄八年なら、龍興は河野島の戦いで同盟国(武田信玄)の同盟国(織田信長)を攻めた事になり、それを安定・平和を望む快川紹喜に嬉々として報告したことになる。龍興はそこまで非常識だろうか。
 もしかすると斎藤龍興の非常識さを際立たせるため(あるいは武田信玄の甲濃同盟無視を正当化するため、武田信玄が斎藤龍興に足利義秋の上洛阻止を指示していた事を隠すため)、意図的に改ざんしたのかもしれない。 

 永禄八年九月九日ではなく、永禄九年九月九日であれば、河野島の戦いの10日後である。立場を保留する武田信玄が上杉派の上野攻めをした時、背後で(義秋側:上杉・織田・松平)対(武田・斎藤)の戦になると、上野から諏訪に軍を戻し、立場を三好側(反・次期将軍)において戦をする事になる。だから、信長が「次期将軍・足利義秋の上洛のため美濃を攻める」と言ってきた時、信長に「美濃を攻めるな」と言えなかった。ここに至って信長は信玄から美濃攻めの言質を取ったのである。
 この後、九月末には信玄は上野を落としており、十二月には足利義栄が「左馬頭」に叙任されて、次期将軍がどちらか分からなくなる。信長の大義名分と信玄のリスクが消え、甲濃同盟が残る。従って、このタイミングでしか武田信玄との同盟は成立しなかったと思われる。
 ビジネスでもタイミングは極めて重要である。
 1566年、信長は武田信玄と同盟を結んだことにより、斎藤龍興と武田信玄の関係に楔を打ち、信長の美濃攻略がようやく始まったのである。

(次回、ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑲に続く)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)

参考:第4章

書籍類

 信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
 甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
 武功夜話・信長編    加来耕三・訳
 斎藤道三と義龍・龍興―戦国美濃の下克上  横山住雄・著
 武田信玄と快川紹喜           横山住雄・著
 天下人信長の基礎構造  鈴木正貴・二木宏・編 の3章 石川美咲・著
 近江浅井氏の研究   小和田哲夫・著
 富士吉田市史資料叢書10 妙法寺記 より 御室浅間神社所蔵勝山記

  属人思考の心理学 岡本浩一・鎌田晶子・著

インターネット情報

小氷期
 https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2017/20170104.html
 https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/656/656PDF/takahashi.pdf

六角承禎条書https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/gakumonjo/gallery.files/R2.4.pdf
天文法華の乱https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi15.html
三井寺(園城寺)
http://www.shiga-miidera.or.jp/about/ct.htm

Wikisouce: 美濃国諸旧記  編者)黒川真道
Wikisouce: 濃陽諸士伝記  編者)黒川真道

Wikipedia


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