ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑫

あらすじ 
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第3章は胡蝶輿入れ後から岩倉城の戦いまでの尾張統一を描きます。時期は1章と2章の間になります。信長さんと胡蝶さんの苦難の道のりです。いわば、ベンチャー企業の産みの苦しみです。ようやく尾張統一です。 


第3章 尾張統一
  ~弱者の生存戦略~

第6節   先んずれば人を制す・尾張掌握

 稲生の戦いを経て、清州織田家(大和守家)全体に、信長に対する畏怖の信頼が浸透した。清州織田家が信長の指示に従うようになったのであった。

 しかし、まだ戦いの傷も癒えておらず、兵の動員力は微増しただけである。これでは戦力として明らかに不十分である。そこで、岩倉織田家(伊勢守家)との協力関係を再構築したいと考えていた。岩倉織田家は信長の父・信秀の美濃攻め失敗(加納口の戦い)以来、仲が悪くなっていたのだった。 
 この時、岩倉織田家(伊勢守家)では、主家の織田信安と又代・犬山城の織田信清が、於久地三千石の領有で対立していた。そこで信長はその両方に使者を送って仲裁を試みたが、両方から断られてしまう。
 そして織田信安は美濃・斎藤義龍と組んで反抗姿勢をとるようになる。
 一方、織田信清は美濃を嫌っており、胡蝶を正室とする信長に対して好感は持っていなかった。しかし織田信安が美濃・斎藤義龍と組んだ事により、織田信安と斎藤義龍に挟み撃ちされる格好となった。こうした状況から生駒八右衛門の説得に応じて、信長と組む事を決めた。そしてその関係を強固なものとするため、信長の姉が織田信清に嫁いだ。信長の姉は犬山城に嫁いだので、以後、犬山殿と呼ばれるようになる。
 その後、織田信安は嫡男・信賢のぶかたではなく、次男・信家を跡継ぎにしようと画策して失敗、信賢により追放される。信長は世代交代により関係改善を期待したが、織田信賢は、父・信安同様に、斎藤家と繋がり、信長に対して反抗姿勢を維持した。
 織田信賢から見れば、代々の守護代である自分より信長は格下(三奉行の一人)である。にもかかわらず、守護の斯波義銀しばよしかねが信長の元に身を寄せており、守護代として信長が優位にある。その事が織田信賢の自尊心を傷付け、不満を募らせていたのである。

浮野の戦い:四者の位置関係

  1558年8月某日、稲生の戦いから2年が過ぎた夏の日、胡蝶の元に密使が訪れる。
「美濃より密使が来ております」
「通しなさい」
 胡蝶が答えた。密使は斎藤高政(斎藤義龍)から胡蝶への密使である。「『一緒に信長を討とう』と信賢殿が美濃に連絡をしてきたとの事。信賢殿は、近く兵を出すつもりのようです」
「やはりそうきますか。信長様を呼んでください」

 織田信賢が出陣の気配を出したので、信長は清州織田家を招集した。
 今回、信長は2000人を招集できた。これまでの倍以上である。もちろん、中核を担うのはいつもの馬廻り衆である。更に、犬山城の織田信清にも援軍要請をだした。
 一方、織田信賢は3000の兵を出してきた。これは信長と胡蝶が想定したよりも多かった。美濃は胡蝶と繋がっているので連合軍になる懸念は無かったが、もし、斎藤義龍が参戦していたら、勝敗は逆になっていただろう。

  両軍は浮野の地で激突した。浮野の戦いである。今回は純粋に力と力の勝負になった。馬廻り衆800は従来通り機能したが、残りの1200は信賢軍と同程度の戦いしかできなかった。そのためほぼ互角、ややもすると信長軍が劣勢に立つ激戦が続いた。
 しばらくして、信清軍1000が援軍に到着し、一気に形勢は信長・信清連合軍に傾き、信賢軍は壊滅状態に陥った。一度戦線が崩壊すると立て直しは困難である。そのままの勢いで連合軍が押し切った。結局、信賢軍は1200を超える死者を出しながら、岩倉城に逃げ込んだのであった。

 信長は兵の消耗を考えて、一気に岩倉城攻めはせず、一旦、兵を引いた。そして1559年、年明けを待って信長は織田信賢の居城・岩倉城を包囲した。岩倉城の戦いである。信賢は先の浮野の戦いで失った兵力は全く回復できておらず、兵糧もさほど増やす事ができていなかった。織田信賢は2ヵ月を超える籠城を続けた。その間、織田信清に寝返りを促し、斎藤義龍に援軍を求めた。
 もし、この時、斎藤義龍が攻め込んできたら、岩倉城を早く攻め落とす必要に迫られ、大きな人的被害を出す事になっただろう。しかし、斎藤義龍は動かなかった。織田信賢は遂に兵糧が尽き、諦めて信賢は降伏した。
 岩倉城の戦いで、信賢側に多くの餓死者が出た。その中には山内一豊の父・山内盛豊も含まれていた。戦国時代にはありふれた話ではあるが、信長は、山内一豊にとって、いわば親の仇になったのである。織田信賢は実質、追放処分となる。やはりここでも温情派・織田信長の甘さが見られる。織田信賢は美濃・斎藤義龍を頼って落ち延びている。

 岩倉城の戦いを終え、対今川対策に本腰を入れ始めた信長と胡蝶。だが、一つ懸念があった。尾張守護、斯波義銀である。

 先立つこと1556年4月、長良川の戦いと前後して尾張の新守護・斯波義銀と三河守護・吉良義明の会見の場が持たれている。場所は上野原(愛知県豊田市)。三河守護・吉良義明からの誘いであった。

 尾張守護には、新守護代として織田信長が付き添い、三河守護には、付き添いとして今川義元が来ていた。
 斯波義銀は三管領家(畠山、細川、斯波)の一つとして、自分の家柄が上であるという自負がある。これに対して、今川義元の軍事力を背景に三河守護・吉良義明は強気であった。吉良義明は自分の方が立場が上であると示そうと、斯波義銀に上座を譲ろうとはしなかった。結局、会見は斯波義銀と吉良義明が互いに上座を譲らず、どちらが上座かという言い争いをしただけで、大した話もせずに終わった。

 信長にしてみれば、何の成果も無い会見であった。唯一、生で今川義元の顔を見る機会が得られたという程度である。なるほど、威厳の感じられる男であった。
 一方、今川義元には狙いがあった。尾張の新守護・斯波義銀を見定め、調略のキッカケにする事である。まず今川の軍備を見せつける。隣の芝は青く見えるものである。そして、吉良義明に強気に出るように言い含めた。吉良義明は傀儡かいらいの守護であるが、今川の後ろ盾を主張する事で軍事力の優位性を強く印象付けたのであった。
 斯波義銀は坂井大膳に父・斯波義統しばよしむねを殺されている。斯波義銀は幼い頃から坂井大膳の言動を見てきており、その坂井大膳を裏で動かしていた今川義元が目の前に居る。家格が下なのに上座を主張する吉良義明。自分を見下す吉良義明の態度は坂井大膳を思い出させた。会見の場で最年少、16才のお坊ちゃま、義銀を動揺させるには充分であった。
 この会見を機に、今川義元から斯波義銀の調略が始まっており、当然、信長もそれを察していた。

「胡蝶、如何したものか」
「義銀君ですね」
 胡蝶には斯波義銀が、どうにも子供っぽく見えていた。
「うむ、まんまと今川義元に踊らされておる」
「これ以上、今川義元に情報を漏らされては困ります」
「そうなんだよな」
「信長様はどうしたいのですか」
「ここまで来て、今川義元に尾張を譲りますか?」
「馬鹿な事を」
「ですよね。赤塚、萱津、村木、稲生、全て裏に今川の影があります。今、信長様が自ら尾張を放棄したら、死んだ者は浮かばれません」
「だよな」
「それで、信長様はどうしたいのですか?」
「尾張を皆が楽しく暮らせる国にしたい」
「それと義銀君とどういう関係がありますか?」
「義銀は尾張守護で三管領家のひとつだ」
 信長も二人だと無意識のうちに、敬称をつけずに斯波義銀を呼んでいた。
「それで?彼が居れば楽しく暮らせる国になるのですか?」
「ならない。むしろこのままでは今川義元に攻め込まれる」
「父・道三はかつて、私に言いました。『国が乱れると、他の国が攻めてくる。相手が悪ければ、女子供も殺される。ましては、その国で名前を知られるような立場にいれば、逃げる事はできない。家族が殺されると思った。だから前の国主を追放した』と」
「はは。流石はマムシ殿だ」
「義銀君は私たちが負けると思っている。だから、私たちに付けば、私たちと一緒に今川義元に殺されると思っている」
「まあ、客観的に見れば、そう思うだろう」
「そうですね。でも、私たちは逃げられないから博打ばくちにでます。義銀君をその博打に無理に付き合わせえるのは酷な話ではないですか。だったら、先に逃がしてあげれば良いのでは?可愛い子には旅をさせよと言うではありませんか」
「可愛い子には旅をさせよ、か。ものは言い様だな」
 守護の子として、世間知らずで育った斯波義銀は、今川義元とのやりとりが信長に筒抜けである事に気付いていなかった。そして、今川に付く事を決めた書状や尾張の内情を報告しようとした書状を出した直後、信長に呼び出される。今川義元に向けた書状を前に言い逃れは出来なかった。尾張守護職を放棄したとして追放された。 

 甲陽軍鑑に以下のような記述がある。

  (略・織田信長は)今川義元公を撃たんと心がけなされたが、それを妨げる人物がいた。戸部新左エ門といって、笠寺(名古屋市笠寺町)の辺りを統治する人物だった。(中略・新左衛門は)義元公に忠節をつくしていた。(中略・新左衛門は)尾州のことは何でも駿州へ通報していた。(中略)信長公もよく心の通じている寵愛の右筆に、この新左衛門の手紙を多く集めて字体・筆跡を一年あまり習わせた。そして、新左衛門の筆跡と少しも違わないほどの段階にいたって、義元公に対する謀反の心を思いのまましたためた内容の書状を織田上総守殿へーー新左衛門、と上書きして、その偽書を、頼める侍を商人に仕立てて、こっそり駿府に届けたのだ。これが義元公の運のつきだったのだろうか。この書簡を本物と誤認なさって、(中略)はやばやと首をはねてしまった。

甲陽軍鑑(品六)

 自分が嘘を使っているから他人も同じ、と嘘を疑う。甲陽軍鑑にこのような指摘があるという事は、武田家にとって常識であり常套手段だったのだろう。敵の書状を盗んだり盗み見たりする事や、偽の情報を流す事は、戦国時代には案外多かったのかもしれない。
 こうした書状は調略や、大名・幕府・朝廷の有力者に向けた多数派工作に用いられた。そうだとすると、一次資料であっても、自分を有利にするための誹謗中傷や嘘の情報をでっち上げている可能性が指摘できる。一次資料であっても辻褄が合わない資料が存在してもおかしくないのである。

 こうした戦国時代の情報戦は、大きく見れば、第二次大戦の大本営発表のようなものである。現代なら、フェイクニュースや各国のプロパガンダに相当する。実際、そのようなプロパガンダに熱心な国がある。
 身近な所では、派閥抗争に関係する組織内の噂話も似たようなものである。声が大きいからと言って世間一般の意見とは限らないし(ノイジーマイノリティかもしれない)、多数派意見であってもそれが事実とは限らない。
 相手のウケが良いように、発信者の都合が良いように情報は操作される。 「相手には先に結論がある」と思えば、都合の良い事実が選別・誇張され、都合の悪い事実は無視・廃棄される。「相手は即断即決と称して単に感情的」と思えば、義元公と新左衛門のように派閥抗争などに利用される。
 嘘や間違った情報で人事や施策が決められると組織運営に大きな悪い影響が出る。私物化が進み、無理・無駄・無茶が増殖する。民間会社ならいずれ業績が悪化していく。
 情報を制するものは、戦を制する。ビジネスを制する。
 事実を正しく認識する事は、失敗のリスクを下げる。いわゆるファクトチェックが重要である。異なる情報源を持つ事、矛盾がないか確認する事、それぞれの情報源の発信意図を考慮する事、それらを複合的に判断し、適切に対処する。情報セキュリティだけでなく、情報リテラシーも非常に重要なのである。
 

 これまで信長は、やられてからやり返すという、受け身・劣勢からの苦しい展開ばかりであった。しかし、尾張掌握に繋がる一連の出来事では、情報を制する事でようやく先回りができたのだった。
 そして、尾張を掌握した事により、信長は桶狭間の戦いに向けて準備を進めていく。

(ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑬ 美濃攻略 ~組織論をふまえて~)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)

参考:3章

書籍類

 信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
 甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
 武功夜話・信長編    加来耕三・訳
 姫君の戦国史      榎本秋・安達真名・鳥居彩音・著
 國分東方佛教叢書 第六巻 寺志部(政秀寺古寺) 鷲尾順敬・編
 斎藤道三と義龍・龍興―戦国美濃の下克上  横山住雄・著
 武田信玄と快川紹喜           横山住雄・著
 歴史図解・戦国合戦マニュアル  東郷隆・著 上田信・絵
 天下人信長の基礎構造  鈴木正貴・二木宏・編 の3章 石川美咲・著

 エフェクチュエーション  サラス・サラスバシー・著

インターネット情報

道三の書状
 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240424/k10014431231000.html

Wikisouce: 美濃国諸旧記  編者)黒川真道
Wikisouce: 濃陽諸士伝記  編者)黒川真道

Wikipedia

情報戦・プロパガンダ
 https://www.mod.go.jp/j/approach/defense/infowarfare/index.html


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