ビジネスメンター帰蝶の戦国記㉔

あらすじ 
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第5章は、初心を見直した信長の目標に向けた動きとなります。美濃攻略を終え、『天下布武』とそれに向けた動きです。上洛に向けた状況整理、方針の確認です。


第5章 天下布武
    ~初心回帰~

第5節  盟友、松永久秀・先輩に学び、相談する

 天下布武(領国の安定)を目指す信長にとって状況は必ずしも好ましいものではなかった。足利幕府の復権・安定は好ましいことである。だが、信長は、できる限り幕府の政治には関わりたくなかった。
 現状、三好三人衆が擁立する足利義栄よしひでは、1568年2月に14代将軍になっている。もちろん第一次上洛作戦以来、足利義昭が正統と考えている。だが、もし上洛作戦が失敗し、足利義栄・三好三人衆の時代がしばらく続くとしたら、信長は逆賊として歴史に名を刻む事になるだろう。
 次に足利義昭を支持する各勢力を見渡してみる。まず一向一揆で朝倉義景は動けない。武田信玄は足利義昭の呼びかけに応じず上杉謙信と対立したままである。従って当然、上杉謙信も動けない。六角承禎じょうていは三好三人衆側につき、伊勢の北畠と同盟を結んでいた。浅井長政は六角承禎を抜くには力不足。徳川家康は今川氏真うじざねと対立している。地理的にも勢力的にも徳川家康よりも信長が有利な位置にある。消去法で信長になるのである。なお1566年に家康は松平から徳川に改姓し、徳川家康になっている。

「十兵衛よ。わしが上洛すれば良いという、そんな単純な話なのか?」
「信長様なら間違いないと存じます」
「世辞はいらん。正直に申せ。何が課題になる」
「光秀殿。信長様は気安い方です。私が保証します」
 かたくなる光秀に胡蝶が促した。
「では、第一に対抗勢力の排除。まずは六角になりますが、これは信長様なら問題ないかと存じます」
「うむ。上洛するならそれは前提よな。戦わなくて済むならそれに越した事は無いが・・・。2年前は龍興としめし合わせて裏切りおったからな。まぁ、龍興は知っての通り。六角も長政殿に負けて痛い目に合っておるから、今回は大人しく従うかもしれんが、・・・。信頼に値するかどうか。どのみち話が通じねば戦って抜くしかあるまい」
「おっしゃる通りです」
 信長は、上洛に先立ち、六角承禎じょうていに「味方に付くなら所司代を任せる」と書状を送り、味方に付くように誘ったが聞き入れなかった。第一次上洛戦の時に六角は裏切っているため、信長は人質による保証を求めたのだが、六角はそれに反発したとされる。交渉が決裂したので信長は戦う判断をしている(信長公記 巻一)。・・・とは「上洛は成功し、信長・義昭が正義」「後に六角承禎は豊臣秀吉の御伽衆になった」から、忖度そんたくした表現である。
 「上洛」とは勢力争い(義栄vs義昭)である。六角承禎から見れば話が変わる。この時、三好三人衆側に現将軍(十四代・足利義栄よしひで)がいる。単純に負けた方が逆賊である。現将軍と三好三人衆を支持する六角がここで寝返る理由はもとよりない。

「さすれば問題は畿内に居る三好勢か、畿内の状況はどうか?」
「三好勢は長慶ながよし亡き後、三好三人衆が実権を握っております」
「で、彼我ひがの戦力をどう見る」
「大和は松永久秀殿がおられます。そして三好方には筒井順慶じゅんけいがおります」
「勝てそうか?」
「阿波三好勢の一部が既に筒井順慶を支援しており、力は拮抗きっこうしております。ですので筒井順慶を倒してから我らに合流する事はできないでしょう。ですが、もし、筒井順慶が三好三人衆に合力して信長様に対抗するようなら、松永久秀殿が背後を突くことができましょう」
「つまり、どちらも動けないという事か」
「はい」
 松永久秀は信長にとって良き先輩である。松永久秀は本来、生真面目で優秀な官吏である。また茶の湯大好きの風流人である。信長と気が合い、第一次上洛戦以来、頻繁ひんぱんに連絡をとっていた。

 未だ申し通ぜずと雖も啓せしめ候、仍って松少(松永久秀弾正少弼の略)と連々申し談ずることに候、今度公儀に御断りの段、建而言上すべき半ばに候、定めて別儀あるべからず候、申すに及ばずと雖も此時御忠節尤に候、(以下略)
   八月廿一日    信長(花押)
 柳生新左衛門殿  御宿所

「柳生文書」大和柳生宗厳宛て書状(参照:織田信長文書の研究 上巻)

 松永久秀は三好長慶に見い出され、その右腕となって三好長慶の最盛期を支えている。しかし、出自の家格が低いためねたみの対象になっていた。三好長慶が亡くなった後は、大和の国の領国運営に注力していた。
 永禄の変の時、松永久秀は足利義輝襲撃には関与せず、足利義昭(覚慶)を保護した。直後に足利義昭が興福寺を脱出すると、三好三人衆から責任を追及され早々に離反している。足利義昭を保護した時点で、松永久秀は離反するつもりだったのかもしれない。実際、第一次上洛作戦の時から既に足利義昭の味方である。
 信長にしてみれば、松永久秀は低い家格から成り上がり、朝廷・幕府に顔がきく先達である。今後、信長が足利義昭を上洛させれば、幕府との関係が強くなるのは明らか。家格の低い信長にとって良い先行事例であり、学ぶ事が多い先輩なのである。

「若江城(北河内)の三好義継殿はどうか。堺を抑えられるか?」
 信長は期待を込めて聞いた。
 三好三人衆は阿波三好家(篠原長房)を主力としており、港町・堺(この頃は三好派)から上陸されると、松永久秀が居る大和(奈良)が戦いの最前線になる。そして大和よりもさらに堺に近いのは北河内の三好義継である。
 三好義継が三好三人衆から離反した事は信長にも伝わっていた。三好義継は三好家の本家筋であり、三好長慶が亡くなった後、本家の当主となった。永禄の変では将軍・足利義輝を討った一人である。しかしその後、分家筋に当たる阿波三好家が主導権を取り、足利義栄を次期将軍に推すようになると三好義継を冷遇するようになる。その事に不満を持ち、三好三人衆から離反し、本家・三好長慶に絶対の忠義を守る松永久秀と組んだのであった(『小林凱之氏所蔵文書』『宮坂伊兵衛氏所蔵文書』)。その後、松永久秀は三好本家の家督を継ぐ三好義継が死ぬまで忠義を貫く。
「三好義継殿の力では、堺を抑えるのは難しいかと」
 光秀は残念そうに言った。
「そうか。だが、堺を押さえられないなら、阿波(四国)から阿波三好家の大軍が押し寄せてくるのではないか?」
「確かにおっしゃる通りにございます」
 二人の間に沈黙が続く。沈黙を破ったのは、胡蝶であった。
「でしたら、筒井に対する松永殿と同じように、阿波三好に対する誰かを味方にする事はできませんか」
「毛利・・・」
 信長が小さくつぶやいた。この頃、信長はまだ毛利と連絡をとってはいなかった。だが、そのつぶやきに呼応するように光秀が続けた。
「毛利殿なら・・・。松永久秀殿が何とかしてくれると思います」
「久秀殿の働きがかなめになるな」
 しみじみと信長がつぶやいた。

 松永久秀は足利義昭の上洛にあたり、瀬戸内の能島村上武吉(村上水軍)や毛利元就と連携する。村上武吉は毛利家・家臣の細川通薫みちただの援軍を得て、三好長治の家臣・香西又五郎に戦勝したことを、松永久秀に伝えている(「屋代島村上文書」)。また上洛後、足利義昭は村上武吉と細川通薫の軍功を賞している(「屋代島村上文書」「下関文書館所蔵細川家文書」)。
 このように、確かに主力は信長軍ではあったものの、『信長公記』が記すような信長軍の圧倒的な武力で上洛した訳ではない。大和の松永久秀、瀬戸内の村上武吉・細川通薫(毛利家臣)らが信長の反対側から三好軍を挟むように攻撃支援した結果、三好軍の主力・阿波三好軍の兵が分散した。その結果、信長・義昭の上洛が容易になったのである。

上洛戦の全体像

 上洛前の永禄十年と比定(推定)される次のような文書が残っている。

御入洛の儀、不日供奉を致すべく候、此刻御忠節肝要に候、其に就きて多聞に対し、弥御入魂専一に候、久秀父子を見放すべからざる旨、誓紙を以って申し合わせ候条、急度加勢をいたすべく候、時宜和伊演説あるべし、猶佐久間右衛門尉申すべく候、恐々謹言
  十二月一日         信長(朱印)
   興福寺御在陣衆御中

「柳生文書」 (参照:織田信長文書の研究 上巻)

 そして上洛した信長はこの約束を守って佐久間信盛や細川藤孝などを大和に遣わし、松永久秀に加勢させている(『多聞院日記』『足利李世紀』)。上洛後も基本的に松永久秀と信長は、足利義昭の下に対等である。信長としても、主力軍として主導したが、盟友・松永久秀抜きに上洛はできなかったと認識していた。
 なお信長が上洛時、松永久秀が茶入れ「九十九髪(茄子)」を信長に献上している(『信長公記 巻一』)。これは加勢の礼である。信長に降伏したから献上したのではない(『続応仁後記』は間違い)。

 ビジネスにおいても先輩の存在は極めて有益である。自分の事業と似ているほど、どのように取り進めたのか、どんな失敗・苦労があったのか、など非常に参考になる。業務提携やコネクションを紹介してくれることもある。
 こうした信頼関係は大事にしなければならない。

 このように信長は松永久秀を非常に高く評価していた。だが、信頼関係という点で違和感を覚える方も多いだろう。それは松永久秀は斎藤道三と並んで、戦国時代の梟雄きょうゆうとして知られるからだ。この間違った先入観・・・・・・・は是正しておく必要があるだろう。

 松永久秀は摂津の国の土豪(国人衆)の出身である。1558年に三好長慶と将軍足利義輝が和解し、足利義輝が上洛すると、1560年松永久秀は弾正弼だんじょうひつに任じられ、お供衆に召し加えられる。
 翌1561年、従四位下に叙され、幕臣としても活動するようになる。基本的に誰が見ても優秀な人物だった。この時、将軍足利義輝も従四位下である。よって松永久秀の官位が際立きわだって高いことが分かる。これが各地の大名から大きな反発を受け、われのない悪口をささやかれる原因になる。
 1563年三好長慶の嫡男三好義興が二十二歳の若さで病没する。松永久秀は三好本家嫡男の死に悲嘆ひたんに暮れる(『柳生文書』)。そして松永久秀は三好義興の後見人的役割を終えたと考えたようで、この年、家督を嫡男・久通ひさみちに譲る。しかし『足利李世紀』では松永久秀の仕業(義興を毒殺)と噂されたと、悪口の方を伝える。
 1564年5月三好長慶が安宅冬康を殺害する。直接の理由は不明である。跡目争いが起きないように、人望の厚かった安宅冬康を殺害したという説がある。実際、家督を継いだ三好義継は冷遇され、阿波三好家を主力とする三好三人衆から離反しているので跡目争い防止というのも変ではない。この事件を『言継卿記』では安宅冬康の「逆心悪行」が原因と記す。松永久秀の関与は示していない。『細川両家記』では他人の讒言ざんげんとし、『続応仁後記』は松永久秀の讒言と名指しする。
 1565年、永禄の変で13代将軍・足利義輝が三好義継と久秀の嫡男・久通に殺される。なぜ、このような行動を起こしたのかは所説ある。この物語では三好三人衆にそそのかされたからと推測する。史実、三好三人衆の三好長逸ながやす石成いわなり友通ともみちらが京都に同行していた。三好義継と松永久通はまだ若く、有力者の三好三人衆を前に独断で動くとは考え難い。一方、松永久秀は足利義輝のお供衆になって親交があり、幕臣としても御恩がある。だから足利義輝の弟・覚慶(足利義昭)を興福寺で保護している。事件当時も奈良に居た。そこへ、朝倉義景の交渉や和田惟政これまさの手配もあって、恐らく意図的に逃がした。これがキッカケで三好三人衆と対立する。以後、松永久秀は足利義昭の味方である。しかし、松永久秀首謀説が根強く残り『続応仁後記』『足利李世紀』では足利義輝を襲撃したように描かれる。
 1567年、三好義継が三好三人衆から離反して松永久秀につく。そして松永久秀は三好三人衆と戦う。この時、三好三人衆側が東大寺に布陣した。東大寺も招き入れた。そして戦いの中、東大寺が焼失する。10月10日のことである。ルイス・フロイスはこの大仏殿の火事について、「三好三人衆方のキリシタンの兵によって放火された」と伝える(『日本史』第一部六十一章)。ルイス・フロイスは1565年(永禄八年)六月二十五日付にて「(松永久秀は)我らが弘めるデウスの教えの大敵である」と松永久秀を嫌っている。そんな松永久秀を擁護することは考えられない人物が「三好三人衆方の放火」と記す。散々悪人扱いしている『続応仁後記』『足利李世紀』ですら、「三好三人衆側の失火」としている。にも関わらず、「松永久秀が1577年10月10日に死んだのは松永久秀が東大寺を焼いた仏罰である」と流布され、松永久秀が放火したかのように伝わる。

 では何故、松永久秀の行動が捻じれて伝わっているのか。それは豊臣秀吉と太田牛一によるプロパガンダと推測する。「信長公記」の作者、太田牛一の著作に『太かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』がある。この軍記は、ひらがなで書かれており、高貴な女性向けと思われる。成立時期を考慮すると、秀吉の側室や女中、朝廷関係の女性向けに書かれたものであろう。よって秀吉の検閲が入り、秀吉の意向に沿っていると推測する。後年、それらをまとめたのが『太かうさまくんきのうち』。この秀吉の意向に沿った軍記において『天道恐ろしき次第』として松永久秀を次のように伝える。

(前略)きよみつまうでとこうし、にんじゆをよせ、二ちょう、くぼうの御かまえ、とりまき、くわうげんゐん殿、御はらめさせ、おなしく、三はんめの御しやてい、ろくおんゐん殿、これ又、とりかけ、うちたてまつり、そのゝち、しゆりのだいぶおととに、あた木つのかみと申じん候き、ぎやくしんを、かまえらるゝのよし、ありありと、ざんそを申かけ、あた木をせうかいさせ、又、しうじうのおんこをかえりみす、なさけなく、三よしに、どくがいをいたし、ころし、さて、てんかのあるじ、われなりと、まんぞく候ところに、(略)
せんねん、まつながしわざをもって、三こくかくれなきだいがらん、ならの大ふつでん、十月十日のよ、すてに、くわひしんとなす。(以下略)
 
(以下、解釈)
清水寺参詣を名目に、人数を寄せ、京都二条御所、公方様の御構え(屋敷)を取り囲み、光源院殿(将軍・足利義輝の戒名)、御腹召させた(切腹させた)。同じように、三番目の御舎弟、鹿苑院殿(三番目の弟・足利周高・仏門に入り鹿苑院の院主)もまた、討ち取り、その後、修理大夫(三好長慶の官職位)の弟に、安宅摂津守(冬康)と申す者がいるが、逆心を持っていると讒訴して安宅(冬康)を殺害させ、又、主従の恩顧を顧みず、非情にも三好に、毒害を盛って殺し、さて、天下の主、我なりと満足していた。(略)
先年、松永の仕業によって、三国(大和、唐、天竺)から見ても隠しようがない大伽藍、奈良の大仏殿、十月十日の夜、灰燼となした。(以下略)

太かうさまくんきのうち  太田牛一・著

 このように松永久秀の悪しき行い(冤罪)を現代に伝える。第一級歴史資料と言われる『信長公記』の作者・太田牛一の著作であり、権力者(秀吉)が広めた。それが政権中枢の奥方や女中から市井しせいに伝わる。秀吉の意向に沿った創作(印象操作)が、豊臣の時代から江戸時代に作られた軍記物の参考資料となり、あるいは歴史小説のネタとして再生産された結果、史実を上書きして「創作物語」が歴史として伝わったと推測する。フェイクニュースがSNSで大規模に拡散し、多くの人が事実誤認をするのと同じ現象である。先入観は恐ろしい。
  なお『太かうさまくんきのうち』の「天道恐ろしき次第」には、松永久秀の他にも、三好実休、斎藤道三父子(道三・義龍)、明智日向守光秀、柴田修理亮勝家、神戸七三(織田信孝)、北条左京大夫氏政、小田原責めの項目がある。1562年に討ち死にしている三好実休を除けば、秀吉が直接戦った相手であり、自己正当化のために作らせたと思われる。
 当時の書き手(太田牛一)は豊臣秀吉に逆らえば命がない。だとすれば同じ作者による『信長公記』においても、同様の脚色・改ざんがあると類推される。特にこれらの人物が関わる内容には、豊臣秀吉の意向に沿った創作を疑って検証するべきである。例えば、『信長公記』の池田城攻略のあとは極めて簡潔である。「十月二日に池田城を攻めた後、次は十月十四日の義昭の芥川城からの帰京、信長は清水寺に入る。十日余りのうちに皆退散して、天下は信長の支配に従った」である。その間、2万人の信長軍(佐久間信盛・細川藤孝・他)を松永久秀に加勢させ、三好三人衆側の勢力(筒井順慶)を攻めている(『多聞院日記』)。しかし「九十九髪」を献上した松永久秀に触れながら『信長公記』には松永久秀に加勢した記載が全くない。悪役・松永久秀と豊臣家家臣の筒井順慶。これは意図的な削除が疑われる。
 政秀寺古記の冒頭部でも、信長公記について「後の人、かえってこれそしる」と記される。政秀寺古記の記述する範囲から、誹られたのは主に首巻についてと推測する。しかし、こうした書き直しによって、軍功を消された家臣から不満が出たとしてもおかしくはない。

太田和泉と云人は、尾州春日井郡の内山田之庄内、天台之常観寺と云にそだちたる者なり。後還俗し信長公へ遅く奉公申しゝ者也。斯の故に信長卿御成立を細不知也。記をとし候事有之、後の人却て誹之

 政秀寺古記 の 冒頭部

 豊臣秀吉(権力者)と太田牛一(メディア)によるプロパガンダが450年の間、松永久秀を悪人にした。現代もSNSによるイメージ戦略で選挙結果が変わる時代である。SNSのファクトチェックもされなくなっている。本当に情報リテラシーは重要である。
 そして松永久秀は信長にとって信頼できる人物だったのである。

(ビジネスメンター帰蝶の戦国記㉕に続く)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)

参考:第5章

書籍類

 信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
 甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
 武功夜話・信長編    加来耕三・訳
 武田信玄 伝説的英雄からの脱却  笹本正治・著
 歴史図解 戦国合戦マニュアル 東郷隆・著 上田信・絵
 富士吉田市史資料叢書10 妙法寺記 より 御室浅間神社所蔵勝山記
 楽市楽座はあったのか 長澤伸樹・著
 織田信長のマネー革命 武田知弘・著
 國分東方佛教叢書 第六巻 寺志部 鷲尾順敬・編 (政秀寺古記)
 春秋左氏伝 上    小倉芳彦・訳
 織田信長の古文書  山本博文・堀新・曽根勇二
 三好一族と織田信長 天野忠幸・著
 古事記       倉野憲司・校注
 日本書紀      井上光貞・監訳 笹山晴生・訳
 明智光秀・秀満   小和田哲男・著
 歎異抄       千葉乗隆・訳注
 足利義昭と織田信長 久野雅司・著
 松永久秀と下剋上  天野忠幸・著
 織田信長文書の研究(上) 奥野高廣・著
 大判ビジュアル図解 写真と絵でわかる日本の合戦 加唐亜紀・著
 群書類従第二十輯 合戦部 より 細川両家記
 太かうさまくんきのうち  太田牛一・著
 言継卿記         山科言継・著
 多聞院日記        
 
 サボタージュマニュアル  越智啓太・監訳解説 国重浩一・翻訳

インターネット情報

小氷期
 https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2017/20170104.html
 https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/656/656PDF/takahashi.pdf
戦国時代の奴隷
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/00bc52b26b9fa6e0fde2415f5f0ef4cb822ae462
 https://sengoku-his.com/218
本美濃紙
 https://www.city.mino.gifu.jp/honminoshi/docs/about.html
公事赦免令
 https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000030/ht000410
SIMPLE SABOTAGE FIELD MANUAL (1944年米国戦略情報局:OSS )
 https://www.hsdl.org/c/abstract/?docid=750070
鵜飼い
 https://www.ukai-gifucity.jp/history.html
国立公文書館デジタルアーカイブ
 続応仁後記
 足利李世紀
その他
 Wikisource :蓮如上人御文章_(意訳聖典) 
 Wikipedia 


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