妹の誕生

小学校2年生、1ヶ月の入院を経てやっと家に帰ってきて母親のそばに戻り、魔の水曜日もなくなりました。
小学校への通学も再開し、この年は手術後だったこともあり、大っ嫌いなプールも免除され、手伝いも入院前より少しは加減され、勉強も入院中の掛け算の特訓のおかげで周りの子どもの数ヶ月先を進んでいました。

順調に過ごしていましたが、またしても母親につわりの症状が出ていました。
母親は学校生活に関与しない割には、わたしの勉強にだけは執着していて、今日はこんな忘れ物があったという連絡事項を隠しているのを見つけ出しては、わたしのほっぺたをつねったり、尻を叩いたりしました。
逆に入院中の掛け算の特訓で、100ます計算はクラスの誰よりも早く正確にできていたので、「お母さんのおかげよ」とご満悦でした。

母親のお腹が少し大きくなってきた頃、大人たちが「ゼンチタイバン」「セッパクリュウザン」という言葉を話していて、母親はいなくなりました。
地元の病院では対応ができず、隣の県の大病院へ入院したようです。わたしへの説明は一切ありませんでした。病院へのお見舞いも一度も連れて行ってもらっていません。自分が入院して会えなかった後に、今度は母親が入院して会えなくなり、結構堪えました。
わたしにしては珍しくこの頃の記憶がありません。

去年母親と完全対決をするきっかけとなったおじさん(母親の弟)が亡くなったとき、何年かぶりに会った宝子さん(母親の一番上の姉)が言いました。
「(わたし)ちゃんが弟の世話をしながら、家事洗濯をして大変そうだから、弟をしばらく預かったのよ。私も同時期に子どもがお腹にいて大変だったんだけどね。」
弟をおばさんが預かってくれていたのは知っていましたが、弟の世話もしながら小学校に行き、父親の世話もしていたようです。そっちの話の方が衝撃的でした。

弟もいなくなってわたしの負担は減ったはずでした。

が、

ばーさん(父親の母親)がわたしと父親の世話のためにやってきました。
父親を立派なアダルトチルドレン、タイプはスケープゴートに育てあげた元祖毒親のばーさんです。

父親とばーさんの仲がよいはずがなく、母親と父親が喧嘩をしているとき以上のギスギスした緊張感がただよっていました。ごはんの用意はする必要はありませんでしたが、心が休まることもありませんでした。

そして、母親の帰らないまま7歳となり、その1ヶ月後、「母親がいよいよアブナイ」という話を聞きました。

妹が生まれました。


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