父親とわたし
わたしと母親とは相当こじれた関係だが、父親には思うところがないわけではないが、そもそも接点が少なかったので今はどうでもいい関係だ。
(そのほうがひどい?(笑)
5歳で引っ越す前、父親からの母親へのDVっぷりはすごく、あざができたり、髪をつかんで振り回されたりしているのをみてきた。
味の好みがうるさく、調味料はメーカーまで決まっていた。マヨネーズはキューピー、ソースはカゴメのウスター、出汁に使っていいのはほんだし、目玉焼きには濃口醤油、天ぷらにはソースという感じだ。
家だと味が気に入らなければそれこそちゃぶ台がひっくり返って、ごはんやおかずの乗った皿が飛んでいった。
3、4歳のわたしにお茶碗の持ち方、箸の持ち方から、三角食べ、絶対くちゃくちゃ言わさないことを当然のこととして求めた。
外食としてラーメンを食べに行くこともあったが、これも悲惨だった。
父親のラーメンは
「スープはあつあつであること」
「麺はちょっと硬めであること」
が必須で、注文をするときにくどいほど店員に確認して念を押して、
それでも注文と違うものが出てくると、店員に文句を言い食べかけを置いて店を出て行った。
「二度と来るか!」
ーー店としても二度と来てほしくないだろう。
その時のわたしと母親はどうしていたのか、その後父親がどうしていたのかは覚えていない。
引越し後、弟妹がまだ乳飲み子な頃、母親がご飯を作るのに疲れると父親がラーメンを食べに行くのにわたしも連れ出していた。
わたしの父親とのラーメンの思い出は上記の通り。
ビクビクしながらついて行く。
父親を不快にする食べ方になっていないか。
言ったものがちゃんと出てこなくて、怒って途中で店を出て行かないか。
そうなったらわたしはどうなる?
わたしは体も小さく少食で、ラーメンの1人前すら食べられなかった。
父親は大盛を注文し、わたしに運ばれてきたラーメンはどれだけ食べられそうかを聞いて、わたしの食べられなさそうな分量を先に自分の丼へ移動させる。
(わたしの食べ残しになるとラーメンは冷めて伸びてしまっているから)
途中でおなかがいっぱいになって残すことになると、「先に言え!」と顔をしかめられるので必死だった。
さすがにわたしだけがいた時にぬるい!伸びてる!と怒り出すのはしていなかったが、ぶつくさ文句は言っていた。
小学校4年でやっと一人で1人前を食べられるようになったときは、自分でもほっとした。
弟と妹が物心つき始めた頃(わたしが中学くらい)には、何度も何度もDVモラハラパワハラ浮気の発覚などで母親が出ていく、許しを請うて連れ戻す、を繰り返していて、モノに当たって腕の動脈を切るなどもあったので、ずいぶんと大人しくなってはきていた。
わたしが作った食事を子どもだけで先に食べ、夜は晩酌としてツマミしか食べない父親の難しい食事は母親がなんとかしていた。
わたしには散々食べ方を躾けていたが、弟妹とはそもそも一緒に食べることがなかったので躾はなかった。
父親は週末には弟と妹をよく遊びに連れ出していた。
夏は海。
冬はスキー。
わたしも小学校までは連れ出されていたが、中学になってからは一緒にいくのを断った。
父親は電車が嫌いだったので、一緒に電車で出かけたのは若くして亡くなった叔父さん?の何周忌かで都会へ行った1回だけ。
泊まりで家族旅行に行ったのも1回だけ。
キャンプも1回だけ行った。
帰省した時、お酒が飲めるようになったわたしを居酒屋に連れて行ってくれたのも1回だけあった。
大学に入学する引越しのときに荷物を積んで軽トラで高速を飛ばし、荷物を下ろして空になった軽トラで帰って行った父親の背中は少し小さく見えた。
弟と妹にはもう少しマシな記憶があるんだろうか?
ずっとDVを目の当たりにしてたわたしよりは、父親がまともに見えたりしたんだろうか。
あ、でも結局離婚することになったのは、わたしが家を出た後、わたしと同じ年の彼女を作ったからというのを妹から聞いて
「さすがにソレは。。。(汗)」
って感じだったな(笑)
その後目はさめたのか離婚したはずの母親とまた一緒に暮らしているけど。
普段の生活のこととか勉強のこととか、何も関与してこなかったので、何から何まで支配的だった母親よりは話は噛み合っていたけど、やっぱり父親は毒親。
子どもの心のままの大人だ。
でも残念なことに、わたしは父親と顔もそっくりだし性格や食べ物の嗜好も似ている。
今年は4年ぶりに父親に誕生日があって、その回数のほうが精神年齢と一致してるんじゃない?と思った、閏年。
誕生日おめでとうの連絡はしなかった。
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