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【お題】声*あふれだす心

  • ビニール袋の中でこねて節水に努め、野菜は煮えやすいように小さく切って、ひとつのフライパンで調理し、余熱調理をするなど節約をしました。

  • 冷凍野菜は停電中の冷蔵庫の中で解凍されたものから順に食べ、貴重なビタミン源となりました。

  • ご飯の代わりに考えたすいとんカレーを自慢して近所に分けたら、とても喜ばれました。3月13日に電気がつき、ホッとしました。

  • 石油ストーブとカセットコンロが活躍しました。乾物はいつも利用しているので、ストックしていたものがとても役に立ちました。

  • 日頃スープとして使っている鶏ガラに付いた肉を使う事に挑戦しました。

  • 洗い物を少なく!が基本でした。冷蔵庫にあるものも、使い切ろうとあれこれ組み合わせたら意外と美味しかったり、けっこう楽しんでました。

  • とりあえず「すぐに食べられるもの、ラップの上で調理して手間いらずにできるものを」と思い、作りました。

  • マンションなので、電気が来ないと水も使用できませんでした。食欲のない中「カナッペですよ!」などと、自分を励ましました。

  • ホットプレートが使えるようになってから、インスタントラーメンの焼きそばを作って食べました。ラーメンに飽きたので子供達に好評でした。

  • 寒くて温かいご飯が何よりのご馳走でした。ご飯に味が付いていると、おかずがなくても美味しく食べることができました。

  • みかんの皮を良く洗って、千切りにして炒めて使いました。オレンジ色が 食卓に彩りを演出してくれて、明るい気持ちになりました。

  • 3月20日を過ぎた頃から物資の配給があり、メニューも豊かになってきました。何もなくても塩分、油分があるだけで、味はバラエティに富むことが分かりました。ライフラインがなくても「みんなの存在」が調味料となり、ただの白いご飯も美味しくいただくことができ、感謝の気持ちでいっぱいです。

  • 地域の方々の持ち寄りでたくさん作らなければいけなかったので、粉ミルクを利用し、温かいシチューを作りました。皆さんに大変喜ばれました。

  • 味噌は町内会の方が「古いですけど使ってください」と、手作り味噌を提供してくださいました。

  • 全ての材料は、避難して来た近所の方々が持ち寄ったものです。これらを利用して「子供もお年寄りも食べやすいものを」と思い、作りました。

  • パパの誕生日は鶏の丸焼きを作るので、買ってきていました。石油ストーブの上で蒸し鶏にし、次の日は残りでスープを作りました。13日はフライパンとカセットコンロでタルト生地を焼き、お誕生会をしました。

  • 震災の日は冷蔵庫のエビやイカを使い、固形スープの素を入れて、鍋でピラフを作りました。野菜をたっぷり入れたスープと温野菜サラダも作り、ろうそくの灯を囲みながら家族で食べた、あの食事は忘れられません。

  • 近所のラーメン屋さんが営業していました。食べ終わると「こんな時だし200円で結構ですよ」と言われて驚きました。800円位のラーメンです。「食材をあまらせるよりは良いし、うちはプロパンだから」と言われ、感激して、持っていた缶コーヒーを差し上げました。

  • 味噌汁用にと避難所に白菜の差し入れがありましたが、味噌汁を作るのは人数が多いので困難でした。それならばとザク切りにして塩もみを開始。3日目に、救援物資のミカン3個とリンゴ5分の1切れに塩むすびの夕食でしたが、おかずというか漬物をいただき、特に年配者は喜んで、自然に顔がほころんでいたことを思い出します。

  • 避難所の電気は15日の午前中に回復しました。長岡市の東北電力の応援で、皆で歓声を上げて喜びました。予想以上に避難して来た方が多く、備蓄も底をつきました。支援物資の手配や連絡、運搬が思うようにいかず、スタッフの方々は大変ご苦労されたと思います。自宅に戻った15日、ストックしてあった野菜と肉をたっぷり入れて作った、我が家特製のカレーライスの夕飯がとても美味しかったです。

  • 近所の方が「大丈夫?」と声を掛けてくれました。とてもありがたく元気をいただきました。老夫婦二人暮らしの方で、私の方から声掛けしなければいけないのに、恥ずかしい気持ちになりました。14日の夜と15日の朝は集会所で食事を頂きました。町内会の方からの差し入れの焼肉で、地震後初めて美味しいと感じた食事でした。

  • ガソリンを買う時に7時間ほど並び、紙オムツを穿いて待っていました。

  • 愛犬とすり身団子1個を半分にして食べたことが忘れられません。1個のすり身団子、小さなおにぎり1個、美味しくいただき、元気がでました。

  • 近所の精肉店や牛タン焼きの店が店頭に商品をあるだけ並べ、大きな声で道行く人に呼び掛けていました。被害もあったと思いますが、在庫に限界が来るまでは市民の食生活を支えたいという、力強い使命感を感じ取ったのは私だけではないはずです。

  • スーパーが開いた時、100人以上が朝8時から並び、5品、3品と制限されながらも静かに混乱することなく買っていました。ガソリンを買う時も雪の中、暖を取りながら車中に泊まって並びました。震災時に心がけたことは自宅にあったコーヒーをドリップで日に3回入れ、少しでも普通になることを願ったことです。食器がたくさん壊れる中、高級コーヒーカップが残り、ささやかな贅沢が出来たのは良かったです。

  • 避難所での炊き出しのラーメン、野菜がいっぱいの熱いラーメンが嬉しかったです。

  • 14日に井戸水を分けてもらうため、町内の農家にお邪魔したのは娘がお世話になったことのあるお宅でした。無事を喜び合い「職場が避難所になって、食糧がなくて困っている」と伝えると、お米30kgと野菜数種類と、「電気も通ったから」とおにぎり用にご飯を炊いてくれました。余震が続く中、涙を流しながら娘ふたりとおにぎり60個を握りました。「またいつでも来ていいからね!」と車のトランクいっぱいに荷物を積んで、握手をして別れました。困った時はお互いさま。

  • 真っ暗な中、いつも聞きなれたラジオのアナウンサーの励ましが、とても安心感を与えてくれました。サツマイモがあったことを思い出し、反射板ストーブでアルミホイルに包んで焼いた味が忘れられません。ロウソク、ストーブ、ラジオ、昭和に戻るべきだと考えさせられました。

  • 地震発生時に、家にひとりいた次女が近所を安否確認して回ったらしく、近所の高齢の方々がたくあんや缶詰を手に、気遣ってくれたお礼、と後日我が家にやってきました。何も知らずに驚きましたが、たくあんなどは職場に持参し、みんなでいただきました。

  • 震災直後、買い物に必要な整理券を求めた長い行列に並んでいた時のことです。お店の方々が飴玉を配って下さり、なんだかとても安心したのを覚えています。過酷な日々ではありましたが、いろいろな場面で暖かい気遣いが見られ、前向きな気持ちになりました。

  • 普段大学やアルバイトで忙しく、同じ家の中にいてもなかなか顔を合わせない子供が大活躍。財布を片手に長時間買い物に走り回ってくれました。

  • 震災後、数日手伝いに行った近くの避難所は、数百人の方が何も持たずに避難していました。長野県上田市からの炊き出しボランティアが入り、大鍋で長野風豚汁を作るのを一緒に手伝いました。温かいものを食べるのは震災以来初めての人たちが、ボランティアの方々に大変感謝している場に居合わせ、ウルウルしながら給仕したことを覚えています。避難されてる皆さんが初めて笑顔になったシーンでした。

  • 町内がやられて体調を崩し、2階で過ごす。3月末、井戸を掘る。ライフライン、やっぱり水が一番だね。6月29日、ようやく電気が来た。友達がコシヒカリと味噌を送って来た。こんなに白いご飯が美味しいとは。何もなくてもお米は2番だね。マヨネーズ3番目。7月1日、いよいよ避難解除。これから、これから。

  • 「笑顔になった!元気をもらった!」もの、それは「おにぎり」です。10~15人位で200人分以上のおむすびを握りました。具はなし。味付けは塩。夕食にもらったおにぎりは1人1個の貴重な、大事な大事なご飯。「明日の朝、昼は食べられないかも」と1個のおにぎりを3つに分けて食べつなぎました。美味しかったぁ。命をつなぎました。焼き鳥屋さんの支援の焼き鳥うまかったぁ。福島から来た牛乳屋さん、会津や九州のラーメン屋さんも美味しかったよ。全国の皆様、世界中の皆様、ご支援、ご協力ありがとうございます。感謝です。だから今、生きていられます。

  • サラダやきゅうり1本でも食べたかったです。あかぎれが痛くて痛くて歩けなくなり、足の裏にガムテープを貼ってました。保健士さんがサロンパスをくださって助かりました。先生にビタミンが不足しているからと薬をいただきました。青汁とか野菜ジュース、牛乳、豆乳、豆腐、わかめ、おから等の非常食があれば少しはバランスが良かったかも。

  • 避難所では毎回配布されたお握りを崩して、雑炊やチャーハンに作り直して食べました。インスタント味噌汁を大量に鍋に入れ、野菜をいれて大鍋にして作りました。

  • 中学卒業を控えた次男がお米を研いで、卓上コンロでご飯を炊いてくれました。柔らかいところがあったり、硬いところがあったりと、味わい深いご飯を家族で食べました。ひとりで工夫し、家族のためにやってくれたことに「ここまで成長してくれた」と、嬉しく思いました。

  • 娘も精神的に不安定になり、食欲もあまりありませんでした。友人の安否確認に出かけた際、某レストランが開店していました。おにぎり2個、かけうどんだけで、停電のため暗くなったら閉店でした。ゆっくりと噛み締めて温かいものを食べ、また頑張ろうという気持ちになりました。「生きていて良かった」と食べられたことに感謝の念でいっぱいになりました。

  • 85歳の姉から「寒の水は腐らない」と聞き、毎年ボトル5本とウイスキーの瓶2本に、寒の水をとっておきます。何の根拠か分かりませんが、水はとても美味しいです。その水とクリスマスキャンドルを使い、40分かけてご飯を炊きました。寒かったのでとても美味しかったです。これで「生きていけるなあ」と思いました。

  • 水が出なくなり、近くの支所へ水を汲みにいくことになりました。市の職員さんから背負えるタイプの入れ物をいただき、背には6リットルの水、前には10キロの息子を抱え、ガソリンもなく、家まで歩いていくしかありませんでした。当時近所のスーパーは2時間待っても少ししか商品を買えないという時、近所のおじさんおばさんが「大根、人参持って行きな!」と声を掛けてくださいました。会うのが初めてだったにも関わらず、野菜を分けてくださいました。感謝の気持ちを忘れず、ありがたく、残さずいただくことが大事だと思います。

  • 自宅に入れなくなり、知人宅に泊まりながら避難所で1週間、朝から夜までお手伝いしました。友達が毎日見舞いに来て声を掛けてくれました。大変嬉しかったです。一人住まいの方への家庭訪問をして、短時間でも元気をもらいました。

  • 短い時間でしたが、子供達だけにも関わらずパニックになることもなかったようです。防災講座などに参加し、知識があったからだと思います。被災1日目は豪華に焼き肉を食べました。赤ちゃんがいる夫の同僚がお湯が沸かせなくてミルク作りに困ってると聞き、カセットコンロを貸しました。空き缶でご飯も炊きました。大変だったのは水です。お皿にはすべてサランラップを敷いて、油を使った料理にはさらにアルミホイルを敷きました。水は「6階まで一生懸命運んでくれた息子に感謝して使おう」とみんなで決めて節約しました。震災で失くしたものはたくさんありましたが、助け合うことの大切さ、友人やご近所のありがたさを感じました。当たり前だと思っていた電気、ガス、水が止まった時の大変さ、日頃の心がけ、そして家族の絆を実感しました。

  • テレビが毎日毎日、目も当てられない惨状を報道するので、各地の友人知人や親類からお見舞い電話がわっと入りました。何かいるものがないか、何か食べたいものがないか聞かれ「そうねえ、主人がラーメンが好きですが」と皆様にいったところ、うちはラーメンラッシュになり、毎日毎日ラーメンを食べました。ほかのものも色々届きましたが、ラーメンの味だけは忘れられないものとなりました。一ヶ月以上して落ち着いてから、和菓子店で買い物したところ、「おのし紙は震災見舞い返しでよろしいでしょうか?」と聞かれ、それまで気づかなかった自分の認識不足を思い知らされました。

  • 初めの一週間はなんとかなりましたが、スーパーは行列、買い物難民になりつつあり、心細くなってきました。そんな時に、25年前知り合った大阪の方から無事を尋ねるハガキが届きました。記されたアドレスにメールすると「何かできることはありませんか?」と。私は食糧をいろいろお願いしました。集配店止まりながら、段ボールがやってきました。本当にありがたかったです。隣近所に分けました。ハガキを届けて下さった郵便屋さん、荷物を運んでくださった宅配のお兄さん、皆に感謝します。ありがとうございました。

  • 実に多くの人々にお世話になりました。とりわけ飲食については、どれだけ救われたか言葉で言い表せません。梅干し入りの海苔おむすびや、それに醤油をたらした餅を、避難所の隣組と分け合っていただいた美味しさを、私は生涯忘れられないでしょう。

  • GW明けまで避難所でした。知り合いから白菜をたくさんいただきました。何も物資がなく、市からも届かない状態で、野菜はどんなにありがたかったか・・・。地域の方々が持ち寄ってくれた調味料で、白菜料理を作りました。ガスが止まっていたので電子レンジを使ってボイルし、大きな電気炊飯器でレトルト食品を温めたりしました。

  • 被害が大きかったはずのガスが、思っていたより早く使えるようになって嬉しかったです。関西弁の若者が丁寧に点検してくれたんですよ。きっと親元を離れて助けに来てくれたんですよね。わずかの飴を手渡したけど、本当は美味しい手料理食べてもらいたかったなぁ。

  • 県外ナンバーの給水車が何台も何台も街を走るのを見て、全国からの応援を知り、胸が熱くなりました。全力で復旧に当たって下さった方々にありがとうと伝えたいと思いました。

  • いかに電気に頼っていたかを思い知りました。この電気の便利さを考えた時、福島原発のこともあり、今複雑な思いで暮らしています。未来に負の遺産を残してはいけないと思ったりもしています。

 私はこうして凌いだー食の知恵袋ー より(一部意訳・抜粋)

2011年12月3日
編集・発行 公益財団法人仙台ひと・まち交流財団  市民センター合同G8企画プロジェクト


しばらくの間、被災してない人もお弁当はおにぎりだけ、とお揃いでした。
あれから14回目の秋が巡って来て、どうやらこの冬の前に、今度こそ通勤路の工事箇所が無くなりそう。空き地の多い荒れた景色でも、待ち望んだ普通の景色。どうもありがとうございます。多くの方に感謝と尊敬を込めて。

万華鏡

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