レディファーストという幻想
ドアを開けてくれる男性。
椅子を引いてくれる男性。
支払いを進んでしてくれる男性。
こういう光景を見るたびに、「これがレディファーストなんだ」と思うことがある。
女性を尊重してくれている、守ってくれている、そんな感じがする。
でも、ふと立ち止まって考えると、その「レディファースト」という言葉の奥には、どこか腑に落ちない違和感が潜んでいるのを感じる。
そもそも、レディファーストってなんだろう?女性を優先すること。
けれど、その背景にあるのは、女性を「弱い存在」として扱う考え方じゃないか。
男性が女性をリードする。
女性はそのリードに甘んじて守られる。
レディファーストは、見方によっては、女性に対する無意識の前提—「君は弱いから、僕が手を貸すよ」というメッセージが含まれているように感じる。
ある日、友人の男性と食事をしていた時のこと。
彼は当然のように支払いを済ませ、椅子を引いてくれた。
その瞬間、感謝の気持ちと同時に、少し違和感が心に湧いた。
「私が自分でできないと思われているのか?」と。
一方で、それを指摘すると「細かい」「文句ばかり」と思われるのではないかという不安もよぎる。
礼儀やマナーとしてのレディファーストに異論はない。
けれど、その行動の裏には何かしらの固定観念が潜んでいないだろうか?
女性が手を差し伸べられるべき存在だという考え。
それは無意識のうちに女性を「守るべき対象」「導かれるべき存在」と位置づけてしまっているのではないか。
レディファーストが美徳とされる背景には、古い時代の価値観が影響している。
女性は家庭に入り、男性が外で働き、家族を養う。
そんな時代にあって、男性が女性を守るべき存在と考えられていたのだろう。
だからこそ、ドアを開ける行為や椅子を引く行為が、女性を尊重する象徴として受け入れられていた。
でも、今の時代はどうだろう?
女性も男性も対等に働き、活躍する時代に、果たしてレディファーストは必要なのだろうか?
むしろ、そんな「守られるべき存在」というレッテルを貼られることに、女性自身が息苦しさを感じてしまうこともあるのではないか。
私たちは、男女平等を叫びつつ、レディファーストのような古い価値観に縛られている。
もちろん、優しさや気配りは大切だし、女性もその気遣いに感謝すべきだとは思う。
だけど、その優しさが「女性は弱いから」という前提に基づくものであるなら、そこには少しばかりの違和感がある。
本当の意味での平等は、レディファーストという形を超えたところにあるのかもしれない。
ドアを開けるのが男性でなくてもいい。
支払いをするのが男性でなくてもいい。
お互いに支え合い、対等な関係を築くことが、これからの新しい「優しさ」ではないだろうか。
レディファーストという言葉に包まれた優しさを、もう一度問い直す時が来ているのかもしれない。
尊重や思いやりは、性別に縛られるものではない。
私たちが本当に求めているのは、ただの儀礼ではなく、対等な関係性の中での本物の優しさなのだ。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。 これからも、日常に寄り添う記事を書いていきますので、またふらりと立ち寄っていただけると嬉しいです。