【メモ】エンタメ、「"新"自然主義」の時代に入りつつある説
メモなので本編をしっかりまとめたあとは削除するものです。
わたしはただいま『超人的シェアハウスストーリー カリスマ』という作品を紹介する長文のnoteを執筆中です。
こちらの作品はキャラクターの設定がぶっ飛んでいるわりに深いところを見ると地に足をつけているというなかなか特殊な作風をしていて、今回はその「ぶっ飛び」な部分ではなく「地に足をつけた」部分について語ろうとがんばっております。
こちらをどうにか表現するためにいろいろ資料を参照しているところなのですが。
資料のひとつ『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』が思いのほか面白かったので結構しっかり読み込んでおります。
その中に、漫画・アニメ的(ライトノベル的)リアリズムと自然主義的リアリズムについての話がありました。
それについては本編でしっかり書くのでメモ段階では割愛。気になる人は『動物化するポストモダン2』を読んでね。
(※追記 書き終えてみたら意外とちゃんと説明していました。ありゃ?)
んで、自然主義とライトノベルとには共通点があると書いてありました。
それは「なんか書くのに、小説の外にある別のデータベースを参照させる」こと。
自然主義は「現実」のデータベース、ライトノベルは「ライトノベル的キャラクター類型」のデータベース。キャラクター類型というのは例えば「魔女っ子」とか「委員長」とかそういうの。どんなキャラでどんな言動をするのかがその一言に詰まっている、言わば紋切りの設定群。それをライトノベル読者たちは意識せずに共有しているから、知らない作品の知らないキャラクターでも「○○系」と言うだけで「あ〜こういうのね」とわかる。
自然主義もライトノベルも「説明の効率がいいから」外部データベースを参照させる形式をとる。自然主義のデータベースは現実そのものであるから、ライトノベルほど「外部データベース」という感じはしないけれど。
本題。
『動物化するポストモダン2』は2007年の著作です。つまりその中でのオタク論、サブカル論、ライトノベル論はあくまでも2007年時点でのもの。取り上げられていたのは『ブギーポップは笑わない』だとか『涼宮ハルヒの憂鬱』とか、今から考えればライトノベル黎明期の作品になります。
じゃあこれを2023年現在の「オタク」「サブカル」に当てはめたとき、一体どうなるのか。
最初の話に戻りますが、わたしは『超人的シェアハウスストーリー カリスマ』という作品がメッチャ好きです。
なぜメッチャ好きなのか。
なんかよくわからないんです。
とにかく『カリスマ』はこれまでの作品とは全く違う。どう違うかをうまく説明できないのですが、たぶん「舞台が限りなく現実そのものに近い」からなんじゃないかな、とざっくり考えています。
ライトノベルはキャラクター小説である。『動物化するポストモダン2』に書いてありました。それは類型化されたキャラクターが物語よりも優位に立つからです。それ以前の小説は明らかに「物語」のほうが「登場人物」よりもメインを張る要素でした。しかしライトノベルは、正直キャラクターがいればどんなジャンルの物語でも成立してしまう(二次創作の隆盛もここに原因があると思われます)。
わたしはそれにちょっと飽きていたらしいのです。データベースに基づいたキャラクターたちはあれもこれも同じような要素を持っていて、みんな一緒に思えてしまったんですね。
「このキャラクターはこのキャラクターである意味があるのかな」
みたいな。
『カリスマ』の登場人物は類型を煮詰めまくった煮こごりみたいなやつしかいません。
ナルシスト系とか厳格系とか、一見彼らはガッチガチの類型そのものでしかありません。
でも彼らが「キャラクター」から遠いポイントとして、「この類型あるある」の要素を破壊しながら存在しているところが挙げられると思います。
例えばさっき挙げたナルシスト系の登場人物、テラ。
テラは自分が大好きでこの世のヒエラルキーの最上位が自分であることを信じて疑いません。もう当たり前の域です。鏡に映る自分に見とれて動けなくなり、最終的には鏡を抱きしめて割ってしまいます。
ここらへんまで類型通り(?)(類型煮詰めた感じ)ですね。
ここから類型を外れていきます。
類型上の「ナルシスト」はこうです。
・自分以外を見下している
・常に自分の美しさを鼻にかけている
・食事制限をかけるなど自分に厳しい
で、テラはこうです。
・自分がヒエラルキー最上位なのはいちいち考えるまでもなく常識なので、周りの人間を観察したり褒めたりする余裕がある
・自分が美しいのはいちいち言うまでもないので他人と比べる必要もない、よって比べない
・自分に正直に生きているのでポテチとか普通に食べる。どんなテラくんも無欠、美しい
あ〜確かに
類型の「ナルシスト」に囚われて気がついていなかったのですが、よく考えたら「自分大好き」という個性に対してそういう解釈があってもいいですよね。ナルシストがみんな傍若無人、なんてひどいステレオタイプ。
そもそもテラって「ナルシスト」なの?
↑あっ!今、類型自体を破壊したぞ
類型≒ステレオタイプ。だからこそ類型に基づくキャラ=架空 になるのですが、では類型を外れてしまったキャラはどこへ向かうのでしょう。
わたしは「現実」だと思います。
現実から「ありえそうな要素」を集めて作られたもの(つくりもの)が「類型」なら、そこに「それ以外の要素」を見出したらそれは「現実」に回帰しているのではないですか。
つまりデータベースが「現実」になる。
それって自然主義っぽい。
『カリスマ』の登場人物はみんな「類型」の外側にいて、むしろ「現実」にいそうな人たちなんです。元ネタがライトノベル的データベースではなく、現実にいる人間(という概念)。
そういえば今、「現実志向」の作品が流行ってる傾向がありますよね。作品の中身としても作者の思想としても。
作者の思想っていうのは、作品を作る側が「これまでと同じようなキャラ造形やストーリー進行じゃダメだ!もっと現実的な話を書かなきゃ」と自負しているっていうことです。
脱・ライトノベル的リアリズム。その時代が、もしかして今、来ている?
そういえばちょっと前まで『チェンソーマン』のアニメがやっていましたね。
あの作品も「現実志向」なもののひとつだとわたしは捉えています。未だかつてあの質感で進行したジャンプ漫画が存在したでしょうか。そもそも主人公がホームレスだったし。作者がどう意識しているかはさておき、現実の諸問題にアプローチしているのがひしひし感じられます。
で。
この「現実志向」。これが「ポスト・ライトノベル的リアリズム」と読み替えられるのだとしたら。実態としては「自然主義」に近いです。でも自然主義が対象としてきた「現実」は果たして今の現実とイコールで結べるものでしょうか。
前述の通り『動物化するポストモダン2』が書かれた2007年のインターネットと2023年現在のインターネットとは様相が大きく異なります。技術的にはスマートフォンやSNS、動画投稿サイトの普及。災害の観点では東日本大震災、最近ではコロナ禍。文化の分野においてわたしが感じているのは「厭世的雰囲気の蔓延」です。ざっくり言うと「みんな暗くね?」ということです。そういうところも影響して今のムーブメントがあるのではないか、というあくまでも予想。
また、ライトノベル的リアリズムから自然主義的リアリズムへの移行は漸進的なものなのか、それとも明確なターニングポイントがあるのかを考える必要も大いにあると思います。
とにかく。
この「自然主義」はもとの自然主義にあらず。
「自然主義´」いや「新自然主義」とも呼ぶべきでしょう。
これについてもっと考える必要があると思います。
わたしは一介の高校生なので文化論にも文芸論にも詳しくありません。せいぜい文学史をかじった程度です。なのでこれをしっかり深められるかといわれれば自信がありません。
もし誰か、有識者がこれを見つけて「深めてえな」とお思いになったなら御の字。
『動物化するポストモダン3』待ってます。(既にあったらごめんなさい)
あ、あとこれはメモなのでしっかりしたnoteは後日したためるつもりです。
※追記
一応調べてみると『新自然主義』のタイトルで岩野泡鳴の著作がヒットしました。また島村抱月の評論のタイトルにも含まれているようです。どのようなものかまだ確認できていませんが、当時の自然主義にも「これは新しい」というなにかが発生していたのだとしたら面白いです。
ただひとつ確実なのはここでの『新自然主義』とは明らかに別物ですので混同しないようにお願いします。すみません。