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アートと光について

ここのところ美術館に行く時間がなかなか取れなかったのだが、ボルタンスキーの回顧展が開催されるというので、国立新美術館に行った。ウィーン・モダン展も開催されていたので、両方観ることができた。

恥ずかしながらボルタンスキーのことはあまり知らなかったのだが、このインタビューを読んで、とても気になったのだった。

アートを鑑賞するとき、そのアーティストの生い立ちや作品のコンセプト、そしてアーティストがどのようなヒストリーで作品群を制作してきたのか、目の前の作品はそのヒストリーのどこに位置付けられるのか、そういった背景情報はある程度必要だ。

だが、最終的にはそれらの知識を全部捨てて、その場で自分が何を感じるか、何を受け取るかの方が、ぼくにとってはより大切なことだ。

アート作品は理解するものではなく、体験するもの、もしくは参加するものだと思う。

人々のアートの体験方法も変化している。欧米のミュージシャンのライブでは観客がかざすスマートフォンの白いライトが既に会場の光景の一部となって久しいが、現代アートにおいても同様のことが起こっている。

以前ニューヨークにいたとき、MoMAではみんなスマートフォンで作品を撮影することにばかり夢中で、ちゃんと作品を鑑賞していないという批判を耳にしたが、欧米の美術館では撮影自由なところも多く、作品を体験する手段は多様化している。

展示されていたボルタンスキーの作品の中でも、電球を使ったインスタレーションは特に素晴らしかった。あれほど美しく、神聖な輝きを放つ電球をぼくは今まで見たことがない。

もっとも感動させられたのが「黄昏」という作品だ。

真っ暗な部屋の床に多くの電球が並べられ、そのうち三つが毎日消えてゆく。これは人生が死に向かって進んでゆく様を示しているが、そのようなコンセプトのことなど忘れてしまうくらい、このインスタレーションが生み出す静謐であたたかなフィーリングに引き込まれる。

コンセプトとは意味だ。意味は理解を待っている。だがソケットと電気コード、そして電球だけのこのインスタレーションは、意味を超えた何かを届けてくれる。それは神聖さや、人のぬくもりや哀しみや、愛を感じさせるが、同時にそれらのどれでもない。それは未知の感情だ。

アートは言語化できないフィーリングを生み出し、人に伝えることができる。ぼくたちはそれをただ感じる。これはまったく驚くべき奇跡だ。

同じ美術館で開催されていたウィーン・モダン展では、なんといってもヴァルトミュラーの「バラの季節」が本当に素晴らしく、ぼくは絵の前でずっと立ち尽くしていた。

「バラの季節」はヴァルトミュラーが亡くなる前の最後の夏に、山間の様子を描いた絵だ。まるで写真であるかのような精緻でリアルな描写に、自然と意識が絵の中へ引き込まれる。

絵全体に満ち溢れている透明な光は、ぼくのなかにもまっすぐに差し込んできて、自然の中へ溶け込む法悦とともに、ぼくの精神を照らす。

絵画というのは、精神の光を描くものだ。もしくは、精神の光こそが絵画を描く。リアルだとかデフォルメだとか、具象であるとか抽象であるとか、絵画の本質はそこにはまったくない。

文学も、音楽も、すべてのアートは精神の光によって照らし出され、アーティストは作品を通してぼくたちの心に新たな光を投げかける。ぼくたちが“情報”と呼んでいる見せかけの世界認識に、アートは光となって差し込み、ぼくたち自身がまったく気づいていなかった未知の領域を示す。アートはあちら側との窓ですらない。ぼくたちは既にあちら側にいる。なぜなら、作品を体験することを通じて、ぼくたちはまったく新しい人間になっているからだ。

ヴァルトミュラーの「バラの季節」は、そのようにぼくの精神を照らし出した一つの明晰な光だった。

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丸山 篤郎
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