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舟越 桂 私の中にある泉

 松濤美術館で開催されている舟越桂展へ行った。緊急事態宣言が出され、本来ならば外出を慎むべきところではあったが、どうしてもこの美術展を見ておきたかった。

『個人はみな絶滅危惧種という存在』という創作メモ集を持ってはいたが、舟越さんの作品を直接見るのはこれが初めてだった。

 展示室に入るといくつもの木彫像が十分に間隔をとって設置されていて、来館者も少なく、一つひとつの作品をゆっくりと鑑賞することができた。地下一階には初期の木彫半身像とデッサンが、地上二階には2000年代以降本格化した異形の木彫像等が展示されていて、作家の表現が移り変わっていく様子を時系列で見ることができる。

《聖母子像のための試作》や《妻の肖像》といった初期の作品にはすでにこの作家の本質が芽吹いており、芸術家のなかで時間をかけてゆっくりと育っていく表現の出発点を見ることができる。氏の作品の特徴でもある清澄な気配は初期の作品から一貫して放たれている。どのような作家においても、表現の核となるものは最初から存在している。あとは時の検証を経て、細胞分裂のように変形し、成長していくだけなのだ。そのことを作品の変遷は物語っている。

 デッサンやドローイングも素晴らしく、紙に描かれた鉛筆画はその線の一本一本に至るまで美しい。《三つの顔》、《無題(未完)》といったドローイングには特に惹かれた。それは作品のなかに、自分が深く知る面影を見たせいかもしれない。

 2000年代以降の異形化した人物像については、正直なところずっと苦手意識を持っていたが、実際に作品を目の前にすると想像していたよりもグロテスクさは感じず、むしろ清らかな印象があった。それはおそらく、この作家の精神性によるものだ。汚濁や混沌の只中にある精神からこのような作品が生まれるとは思えない。

 氏の代表作である「スフィンクス・シリーズ」はその男性的肉体と女性的肉体を混交した造形に抵抗があって惹かれなかったが、《海にとどく手》や《森の奥の水のほとり》、そして《言葉をつかむ手》の諸作品は素晴らしかった。

 特に《言葉をつかむ手》には強く惹きつけられ、時間の許す限りぼくはこの半身像と向き合っていた。(感染症対策のため、館内での鑑賞時間は一時間を目安に、とされていた)

 美しい表情をした女性の裸像の背後から、洋服を着た誰かの右手がそっと宙へ差し向けられている。その手はすべすべとしているがやや骨ばってもいて、男性のようにも、女性のようにも見える。あらわになった乳房のあたたかな丸みはとても木から彫り出されたものとは思えないほど柔らかいが、官能を秘めつつも清らかだ。聖女の佇まいは背後で言葉をつかもうとする手を背負うようにも、守っているようにも見える。女性の裸身が聖なるものであるのと同様、宙へ伸ばされる手もまた聖なるものだ。この半身像に備わっているエロティシズムを否定することは難しいだろう、だが作品に漂う清潔さが劣情を退け、むしろ鑑賞者と作品との間に一種の聖性を呼び起こす。このような清澄な存在、深い理解と愛によってのみ成立する相互作用を、ぼくは知っている。

 絵画や彫刻といった文学以外の芸術様式を目の当たりにするとき、いつも物理的な存在そのものが持つ力について意識させられる。彫刻に限らず、絵画などの美術全般は「物理的に目の前に存在していること」自体が作品の一部なので、本や図録などで見てもその真価を感じ取ることは難しい。インターネットの発達によってぼくたちは世界中の情報にアクセスできるような気になっているが、モニター越しでは届かないものがこの世界にはある。このような時代だからこそ、ぼくたちは物理的なものの持つ力をもう一度思い出す必要がある。

 何かと、誰かと、直接触れ合うことをこれほど渇望している時代も人類史上ないだろうが、遠く離れていても、目の前の芸術作品を通じて今ここにはいない存在を確かに、はっきりと感じることができる。そのことを改めて実感した展覧会だった。

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丸山 篤郎
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