
「対馬の海に沈む」を読んで
この書籍にはあなたとあなたの生きている社会が描かれている。日本社会に巣作う人間の醜悪さ、そしてそれを増幅する現代性、すでに取り込まれている私たち。
この書籍タイトルをnoteで検索したが1件もヒットしなかった。このノンフィクションを一人でも多くの人に読んでもらいたくてしたためている。
24年度の著名なノンフィクション大賞を受賞しているため、ここで私が推奨することの効果は僅かだ。それでも読了した一人の大人として誰かに推す義務があるというか、何か怨念が自分に取り憑いたままであるよう予感。だから誰かに伝えたという事実をここに残す。
九州の対馬という島で起こった金融詐欺事件を扱ったノンフィクション。ある一人のJA職員が犯人になっているが、彼は対馬という島で、踊っていただけ。リズムを鳴らしていたのは社会であり、それを観ていたのは我々だ。
推奨するポイントを以下に書き出すので参考にして欲しい。
(舞台)日本の地方都市と人
この舞台は九州対馬で起きた歪な事件。でもそれは日本においてはどこでも起こりうる普遍的な出来事。組織と細分化された管理、貨幣、社会と人間などの諸条件が揃えば発生する必然でもあるように感じる。否、日本だけでなく、中国でも、欧米でも、南米でもアフリカでも文脈の異なる構造的な不正や詐欺が横行する。個人的な欲望、構造的欠陥などで片付けたくなるがそんな単純なものではない。人間社会に内包するバグというより、バッファーのようなもの。世の中の歪みを良い意味でも悪い意味でも解消する緩衝液。歪みのない世界など存在しない。類似の構造が事件性を帯びないまでも世界のここかしこで存在する。
(シナリオ)プロットとストーリー
ノンフィクションであるため発生した事件があって、その真相を追求するプロセスが全体の流れ。途中で伏線があって、それを回収しながらジワジワと本質に迫る。ずっと緊張感を伴って息をすることを忘れてしまうような感覚。主犯とその仲間、インタビューイーとインタビュアー(著者)。全ての登場人物が自分と重なる。つまりこの事件で自分だけは無関係である、無実である、被害者である、と言える大人はいない。我々全員が当事者。緻密に計算されたプロットとして章立て、調査に基づく回想、考察、インタビューのやり取りが効果的に配置されている。
(文体)著者の視点と筆跡
情景描写や著者の主張は最低限で、その行間は読者が適切に埋めることができる。その抑制の効いた文体とテクニックには舌を巻く。あまりに秀逸なノンフィクションであるため、近いうちにドラマ映画化されるのは確実だろう。でもこれは書籍として十分に映像作品を観た錯覚を抱くほどの臨場感とリアリティーがあった。
どれだけの人をこの書籍の道連れにできるかわからないが、是非この事件を体験して欲しい。そして誰かを道連れにしたくなる私のこの感覚も同時に味わってもらいたい。