『わたしは、ダニエル・ブレイク』を観て
『わたしは、ダニエル・ブレイク』という映画に描かれている政治的諸問題について、ざっくり解説するよ!
あらすじは各自で映画を見てくれよな!!
⑴新自由主義の福祉政策
この映画の舞台は、現代のイギリス北東部ニューカッスル。
インターネットが普及していることなどから、おおよそ2000年代以降と考えて差し支えないだろう。
この作品の中で描かれるテーマの一つに、新自由主義の福祉政策の問題がある。
新自由主義とは?
新自由主義──
1970年代の経済危機を受け、80年代以降に台頭してきた政治思想である。
その政策の特徴としては、以下の通り↓
自由至上主義と大企業の利害に沿った構想
福祉費の削減に伴う、社会的弱者を切り捨てるような制度設計
経済危機に対応するため、新自由主義の政治は、完全雇用よりもインフレーションの制御を目的とした社会支出の削減と減税を行ったのである。
具体的には、
公共サービスの民営化+品質低下
貧困層向けの給付のカット
失業者、シングルペアレント……
社会扶助の受給資格の引き上げ
「福祉受給者=怠惰」とする考え(現代日本も他人事ではないだろう)
極貧状態の休業者などよりも、ワーキングプアを対象とした税額控除
……などが挙げられる。
新自由主義的政策の受益者と犠牲者
先に言及したように、こうした政策から利益を得たのは富裕層であった。
逆に煽りを食ったのは、作中で描かれる様々な社会的弱者たちである。
一度『わたしは、ダニエル・ブレイク』を観てもらえれば、これでもかというほど新自由主義的政策に翻弄される人々の姿を見ることができるだろう。
融通の利かない役所
受給者の粗を探すように無駄の多い手続き
遅々として進まない支援……
そして、その結果として生じる、セーフティネットの「隙間」に落ちてしまう人々。
民間企業の不十分な審査によって福祉の網の目から弾かれ、雇用・支援手当と求職者手当との狭間に落ちてしまった主人公ブレイクは、この適例といえよう。
また、ケイティ一家のようにフードバンクや親族などに頼らざるを得ない不安定な層が生じたのも、こうした政策によるといえる。
新自由主義的社会の更なる問題点
一度陥った貧困から脱するのが困難というのも、こうした社会の大きな問題点だ。
中国のネット仲間から小包でスニーカーを手に入れ、転売するチャイナ(=法的にグレーな仕事)
性産業に従事するケイティ(=少なくとも作中においては、自尊心を削る仕事)
彼らはこうした仕事によってしか、生活を維持・向上させることができない。
そして、そのような人々は、映画の中のみならず現実世界にも数多く存在するのであろう。
小括
新自由主義的政策とは……
富裕層の利益に資するものであり、その他の層は不安定化
社会の最下層を取り残し、各階層の格差拡大を引き起こした
更に……
労働者という、同じ階級の内部でも分断を招いた
福祉を望む層/減税を望む層の分断
税額控除されない休業者/税額控除されるワーキングプアの分断
『わたしは、ダニエル・ブレイク』の作中では、こうした社会情勢の下、取り残される下層の人々について丁寧に描かれるのである。
(階級間の格差拡大、階級内部の分断といった新自由主義的社会の全体像については、断片的に示されるだけだが……)
⑵セーフティネットからこぼれ落ちる人々
また、作中では、セーフティネットからこぼれ落ちて不可視化されている問題についても描写される。
見えない「特有の」問題
ケイティがフードバンクに赴くも、生理用品を手に入れることができない
↑これは見てわかる通り、「女性※」特有の問題に焦点を当てた支援が少ないことを示しているといえる。
ダニエル・ブレイクとその亡き妻のような介護状況
夫であるダニエルが、一人で認知症?の妻を介護していた
映画が始まった時点でダニエルに貯蓄がなかったのは、妻が亡くなるまでの間、蓄えを切り崩しながら生活していたから
↑余裕のない経済状況+ケアの担い手がほぼいない(夫であるダニエルだけ)という、悲惨極まりない状況である。
それにもかかわらず、ダニエルが辛うじて介護できてしまっていたために、二人の生活状況は問題にすらならなかったのだ。
セーフティネットからこぼれ落ちてしまい、自力で身を立てるしかなかったブレイクの介護生活は、遅効性の毒のように、後から妻亡き後の彼の経済的基盤を蝕んでいったのだった。
小括
国家による福祉という公的サービスにおいても、フードバンクなどの私的ボランティアにおいても、ある属性を持っている人たち固有の事情は見逃されがちである。
それは例えば、ケイティのような「女性」という属性かもしれないし、ブレイク夫妻のような「孤立した老夫婦」という属性かもしれない。
「必要な支援」を考える際には、何/誰を支援の普遍的な基準として打ち立てているのか、見直す必要があるだろう。
⑶分配と尊厳の問題
さて、ここまでは富の分配というハード面の話をした。
ここからは、尊厳・自尊心といったソフト面について解説していこうと思う。
他の方の解説記事をいくつか拝読したが、尊厳について詳しく書いてあるものは見かけなかった。多分。
だから、ここからが本題だと思って読んでいってほしい。
「分配」さえすれば良いのか?
雇用・支援手当
求職者手当
フードバンクで配られる食料品・生活物資…
先にも述べた通り、↑これらは全て金・モノといった物質的な富の分配である。
もちろん、このような分配が非常に重要であることは言うまでもない。
しかし、それだけで良いのだろうか?
「分配」さえしていれば、全ての窮状は解決できるのだろうか?
実のところ、単なる分配だけでは、困窮する人々を救うために不十分なのだ。
作中では、随所にそれが示されているといえる。
ブレイクの「施しは受けない」という一貫した態度
この姿勢は、特に彼の最後のモノローグ部分によく表れている。ブレイクは「他者に依存せず、自立した自分」を大切にしていた。
ケイティの発した「ミジメだわ」という言葉
ケイティは空腹のあまり、フードバンクで支給された缶詰を、その場で開けて手づかみで食べてしまう。その際の発言が↑。
こうした描写からも分かるように、人は、ただ一方的に他者の視線にさらされ、憐れまれ、モノを恵まれるだけの状況に耐えることができないのだろう。
(もちろん、そうじゃないヤツもいるだろうけどね)
「与えられる」ことによる尊厳の低下
競争重視
求職者手当の受給にも、「求職していることの証明(=ジョブ・ハントの場で競争し続けていることの証明)」が絶えず求められ続けるのは、この競争重視姿勢の典型例といえる
自己責任論
「自分のことは自分で何とかして当たり前」「制度や他者に頼っている時点で、自立できていないダメ人間」という価値観
福祉受給=一方的な国家への「依存」とみなす価値観
こうした考えが跋扈する社会では、ブレイクのように、支援を上から下への温情として「与えられる」ものであると感じて、拒否感を覚える人間も生じる。
「本来自分で何とかすべきところを、お情けで与えてもらっている」という感覚は、人の尊厳を削りとっていくからだ。
「与えられない」ことによる尊厳の低下
貧困に伴う精神的な窮乏の種類は、他にもある。
作中におけるケイティの振る舞いをたどっていくと、このことがよく分かるだろう。
フードバンクでの「非常識な」振る舞い(手づかみで缶詰を食べる)
生理用品の万引き
↑ケイティの普通から「逸脱した」行動や犯罪行為は、彼女に自尊心の低下をもたらした。
そして、こうした自尊心の低下の根底には、貧困層向けの給付のカットや女性特有の事情が見逃されていることに由来する、社会的・経済的な窮乏があるのである。
小括
結局のところ、「お情け」を与えられても、与えられずに見捨てられても、人の尊厳は低下する。
こうした尊厳にまつわる問題は、「分配する/しない」という単純な二項対立を超えたところにあるのだ。
現代社会における自尊心の問題の根本には、やはり新自由主義の影響が色濃くあると思われる。
それは、新自由主義の持つ個人主義的な性格による。
というのも、個人主義によって、あらゆる階層の人々がケアを必要として相互に依存している状態が不可視化されているからだ。
「一人でも生きていける」
「むしろ、誰にも依存せず、一人で完結した生活を送っていることが立派だ」
ここでいう「一人で完結した生活」とは、経済的な面においてのみのことであるといえよう。
だって実際、どんな金持ちだって、農家の人とかゴミ収集作業員とかがいるから生活が成り立ってるわけじゃん?
経済的に自立することはできるかもしれないが、何事からも完全に自立して生きていくことは、文明社会においては不可能なのだ。
家事
病人・けが人・要介護者のケア
不用品の分別・処分
しかしながら、新自由主義社会において、↑こうしたケアワークは商品化されているのである。
だからこそ、経済的な優位性(様々な「商品」を買えること)=完全な自立という図式ができてしまう。
翻って、社会の下層にある人々の経済的な従属性は「依存」とすり替えられ、「自立できていない」者の自己責任として片づけられる。
依存に関するこのような認識は、弱者に対して冷たい視線が向けられ、その尊厳が傷つけられるといった事態にもつながる。
そう、「靴が壊れている」「フードバンクに行っている」といった理由で、ケイティの娘デイジーがいじめられたように。
こうした事態を解消するためには、単に物質的なモノを再分配するだけでは不十分だろう。
人々の相互依存状態
誰もが「家事」「治療」「介護」といったケアを必要としている=依存しない人などいない
「金がある=自立している」と思われがちだが、金持ちもケアを金で買っているだけであって、結局のところは他者に依存している
各人の生の展望が、偶然によって左右されていること
ある人が「有能」であったり「金持ち」であったりするのは、偶然である
翻って、ある人が「恵まれない」地位にいるのも偶然の出来事である
この「偶然の差異」による不平等・不幸を減らすよう制度を設計するべき
これについては、ロールズの『正義論』に詳しく書かれていた気がする
↑これらのことを社会全体が認知し、制度に反映する必要があると思われる。
まとめ
さて、ここまでで『わたしは、ダニエル・ブレイク』の中で描かれる
新自由主義と福祉の問題
各人固有の事情の問題
分配と自尊心の問題
……について概観した。
新自由主義的政策は、個人的自由の名のもとに労働組合や公共セクターを縮小・解体した。
そのため、人々は組合などの共同体から剔出されるされることとなる。
その上、経済的困窮を「依存」や「怠惰」そのものと同一視する社会的風潮まで出てきたものだ。
お互いが共同体から切り離されてよく分からない上に、「金にならなきゃ価値がない」とでも言わんばかりの空気の中では、
階層による分断
支援の枠から外れた人間の不可視化
貧窮する人々の自尊心の低下
……といったことが起きてしまう。
そこには、単なる経済的困窮を超えた、承認や尊厳、ケアの問題が含まれている。
『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、新自由主義が禍根を残す現代政治に関連して、
富の分配というハード面
自尊心というソフト面
↑この両面で追い詰められる人々を描いた作品なのだ。
参考文献
ケア・コレクティヴ著、岡野八代他訳『ケア宣言 相互依存の政治へ』(大月書店、2021年)
齋藤純一、田中将人『ジョン・ロールズ』(中公新書、2021年)
「新自由主義」『日本大百科全書』Japan Knowledge Lib
「新保守主義」『日本大百科全書』Japan Knowledge Lib
デイヴィッド・ガーランド著、小田透訳『福祉国家 救貧法の時代からポスト工業社会へ』(白水社、2021年)
デイヴィッド・ハーヴェイ著、渡辺治監訳『新自由主義 ──その歴史的展開と現在』(作品社、2007年)
ナンシー・フレイザー、アクセル・ホネット著、加藤泰史監訳『再配分か承認か? 政治・哲学論争』(法政大学出版局、2012年)