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物語とポリティカル・コレクトネス

⚠️注意⚠️

  • 「『物語』の構造は『ポリティカル・コレクトネス』の概念と相性が悪いのではないか」という話です

  • 「ポリティカル・コレクトネスは間違っている」という趣旨のnoteではありません


物語は、普遍性ではなく個別具体性から生じる。
そして、個別具体性は「他のものと区別できる」ことによって定義されるという点で、多かれ少なかれ「差別的な」性質を持つ。

分かりやすくラブストーリーを例に取ってみよう。
なぜ、画面の中の恋人たちは愛し合うのだろうか? 彼らは何と言って愛し合っているだろうか?

他でもない貴方だから、好きになったのです」──こんなことを言っているのではないか?

少なくとも「誰でも良かったから、たまたま近くにいた貴方を選んだ」などというラブストーリーは見たことがない。

(まあ、めっちゃ探せばあるのかもしれないけど……)

恋人たちは「他の誰でもない、まさにこの人」だからこそ愛しているのだ。
そうでなければ、どうしてドラマが生まれるだろう?
「誰でも良い」「誰もが良い」のであれば、どうして「運命の恋」などと言うことができよう?

ラブストーリーとは「まさにこの人」を見つける過程だ。
しかし、特定個人を愛するということは、まさに差別(=あるものと他のものに差をつけて扱うこと)以外の何物でもないだろう。

たとえ「この人」がセクシャル・マイノリティであろうと、エスニック・マイノリティであろうと、何かしらの障がいを抱えていようと、あるいは、マジョリティであろうと──それらは「この人」を構成する個々の要素でしかなく、「この人」の全てというわけではない。

愛したのは「具体的なこの人」なのである。
他のセクシャル・マイノリティやエスニック・マイノリティや障がい者やマジョリティを「この人」と置き換えることはできない。

「この人」と「その他の人々」との間には、何かしらの差があった。
この「差」とは、属性の一覧表かもしれないし、各能力のバランスかもしれないし、もっと曖昧なニュアンスとかムードのようなものかもしれない。
それは分からない。でも、何かが違ったのだ。

「この人」は、抽象的な個々の属性(性自認、性的指向、エスニシティ、障がいの有無…)だけで表すことのできない、個別具体的な全体と人格を持った存在だからこそ、他者と差別化され、愛される。

そこには、確かに個別具体性を志向する「差別」があるのだ。
これが悪とされないのは「比較的、誰かを傷つけないから」であって「差別じゃないから」ではない。

ラブストーリー以外でもこれは成り立つ。

「世界を救う」みたいな壮大な物語だって「美しいこの世界を救うのだ」という具体的ビジョンがある。そのために倒さねばならない「巨悪」がある。
救わなければならないのは「この世界」だからだ。認識したこともない世界の、会ったこともない人々のために命を張る勇者は、きっと存在しない。

サスペンスやミステリーだってそうだろう。
「誰でも良かった」は、少なくともミステリーの動機としては成り立たない。まさに「憎きあいつ」だからこそ殺意を覚えたのである。

そうだ、「セカイ系」なんかは一番分かりやすい。
「特定の誰か」と「世界のすべて」を天秤にかけて、前者を取ってしまう究極の差別。葛藤。エゴイズム。
極限まで愛を注ぐ対象を限定するからこそ、セカイ系はドラマになる。

結局のところ、ストーリーやドラマを生むのは「あれ」とか「これ」とか、当事者意識をもって特定されることなのだ。
いつまで経っても「これ」と名指されることなく「AもBもCもDも正しくて〜」とやっていたのでは、どうしたって冗漫になってしまう。

そもそも「面白さ」というものは、多かれ少なかれ排他的な性質を持っているといえるだろう。
人は何かしらのふるいにかけられないと、面白いと感じることができないのだ。

多くの人々の共感を求める「あるあるネタ」でさえ、「『あるある』と言えて、かつ『これが分からない人もいるよね』という認識を持っている」というふるいにかけられないと、面白いと感じられない。
だって「先進国あるある。服を着ないと逮捕される」とか言っても、当たり前すぎてつまらないじゃないか。

そして「当たり前すぎる話」──普遍的で抽象的すぎる話は、得てして「つまらない」と言われてしまうのである。

ゆえに、ポリティカル・コレクトネスとストーリー的な面白さは、基本的に相性が悪いといえるだろう。
ポリティカル・コレクトネスとは、まさに中立的な表現や用語によって「普遍的な正しさ」を追求する「抽象的な方法の意識」なのだから。

「様々な人」「全ての人」をストーリーの中に包摂しようとすればするほど、ストーリーが求める「特定化」のプロセスにはノイズが走ってしまうのである。
そして、細かな多様性の描写は、しばしば排他的な性質を持つストーリーの面白さへの集中を削ぐ「摩擦」として働いてしまう。

「全て」を取り込んだ描写をしようと思ったら、「あの人を好きになったんだ!」と端的に言い切ることはできない。
「あの人を好きになったんだ──あの人はヘテロ寄りのバイセクシュアルで……それから、こんな属性も持っていて……」と言わなければならないのである。

更に本筋から外れて「あ、由紀ちゃんだ。この前彼女と別れたって言ってたけど、今日は元気そう」「あっちにいるのは悠くん? 電動車椅子にしたんだね」みたいな話まで挟まってくると、もうストーリーとしては楽に筋を追えないだろう。
たとえこれらが、物語に関わってくる情報なのだとしても。

もちろん、現実は多様性に満ちているし、「フィクションの中でも人々の多様なあり方を積極的に描こう!」というのも、決して間違った考えではない

問題は、我々が「多様性の描写」を認識し、理解することに、凄まじく脳のリソースを食われてしまうという点なのだ。

まず、数万年単位で営まれてきた人間の文化・思想・価値観の多様さを、たった数百ページの本とか、たった数時間の映画で描写しつくすことに無理がある。

そんな短い物語にあらゆる描写をねじ込もうとすれば、当然、一つひとつを深く掘り下げることはできなくなる。
ただただ、何かしらのマイノリティが何の脈絡もなく登場して、ちらっと触れられたくらいで画面を通り過ぎていく……ような印象を与えてしまっても不思議ではない。

それでは、コンテンツの受け手の意識も、ストーリーの本筋から外れていってしまうばかりだろう。
そして「多様性の描写に終始するあまり、肝心の本筋がおざなりになっていて、気が散った。そうやってストーリーがつまらなくなるくらいなら、もうポリコレなんかやめてほしい」という本末転倒な感想を抱かせてしまうのである。

(本来ならば、「魅力的なコンテンツ」に「正義に適った表現」を加えることで、楽しみながら価値観を自然とアップデートしていくのが理想的なはずだ)
(しかし「正義に適った表現」の過剰がコンテンツの「魅力」を押しつぶしてしまえば、本来の目標たる「娯楽の中からの啓蒙」は不可能になってしまう)

また、「一本の」ストーリーに慣れた私たちは、「作中で描かれる全ての描写には、物語に対する何かしらの意味が与えられて然るべきだ」「意味のない情報がわざわざ描写されるはずがない」という意識を持ちがちなのかもしれない。

おそらくこうした意識のゆえに、私たちは、画面を通り過ぎていくだけの描写には違和感を覚えてしまうのである。

「この描写からは、『物語』に対してじゃなくって『現実世界』に対する強いメッセージ性を感じる。『物語の』要素としては異質で、不適当なんじゃないかな」
「これ、わざわざ描写する意味あった? ストーリーに集中させてよ

……という違和感を。

それに、これは我々の差別意識の表れそのものなのだろうが──私たちにとっては「多様性の描写」自体が極めて新しいものなのである。

だからこそ、マイノリティの描写は、発信側/受信側の双方に、認知への負荷を強いる。
負荷を軽くするための方法がはっきりと確立されていないからだ。

例えばこれがマジョリティならば、記号的に扱うことができるのである。
記号的に描写し、受け取るための方法論も確立されている。

「クリスマスに浮かれる異性愛のバカップル」が一瞬描写されたからといって、いちいち認知に負荷を受ける人はいないだろう。
彼らはもはや「物語に『浮かれムード』という色彩を付与する」ための単なる記号であり、舞台装置にすぎない存在になっているからである。

しかし、マイノリティの描写は「よくある、単なる記号」と受け取られるまでには一般化していない

ゆえに、例えばゲイが描かれれば「このキャラがゲイであることには、ストーリー上における何かしらの意味があるのかな?」と無駄に勘ぐられてしまう

ポリティカル・コレクトネスが、描写のたびに観客の「意識に上って」しまう。
そして、描写を重ねれば重ねるほど、作品は観客の認知に負荷を強いて、彼らを疲弊させる。結果として「ポリコレ」が厭われる。

物語の「面白さ」を生む構造と、ポリティカル・コレクトネスとの間には、こうした相性の悪さがあるのである。

重要なのは、「多様性の描写」とそれが観客にもたらす「認知の負荷」とが、物語の本筋から外れないよう、常に意識することなのだろう。

まあ、物語を進行させる「特定化のプロセス」とポリティカル・コレクトネスの「普遍化」は、それでも相性が悪いのかもしれないが……

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