やらないという自由
罰として、全員校庭100周!。え”〜っ!!
クラスの誰かがやらかしたら、連帯責任という名のもとにみんなが同じ罰を受け、みんな素直に従った時代があった。
中には、ズルをして3周しか走らない人もいて、そんな人はごまかしが上手になっていった。でも、ズルをした人と100周走った人とでは、確実に97周の差が開いていった。その過去の積み重ねが時代を経て今に至る。
今の時代は「走らない」という選択が加わった。
連帯責任という概念は消え去っていき、それを押し通そうとすると「パワハラ」と言われるようになった。それだけ、自由や自主性を重んじる世の中になった。
それが良いか悪いかは個人が決めればいい。それも自由や自主性の範疇になった。
自由や自主性は、一見したら理想を獲得したかのように見えるが、糸が切れた凧のように飛ぶ先を見失う人も少なくない。ただ時代を経ても変わらないこともある。それは、「走らない」という選択をした人は、「走る」を選択した人と100周の差が開くということ。
最初はみんなゼロからの同時スタート。
しだいに時間と共にその差は開く。
今の時代、自由や自主性の名のもとに、やるもやらないも個人の自由。例えば、
仕事であの先輩のようになりたい!
じゃあどうすればいいんだろう?
先輩は言う。
マニュアルを読んで理解する。
現場を見て、わからないことはその場で質問したり後で調べる。
いろんな分野を分け隔てなく見て視野を広げる。
研修で知識を自分のものにする。
常に仕事の効率化を考えて同じ失敗をしないようにする。
とにかくいろんなものを吸収し、自分の血肉にする。
先輩に聞けばいろんなコツを教えてくれる。
本を読んでも参考になることはたくさん書いてある。
成功の法則的な本もたくさんある。みんなどうすれば求めるものになれるか?が誰でも手に入る。
それを自分の前に並べた時、
「やるも自由」「やらないも自由」。
昔は連帯責任や時代の流れで強制的にやる環境もあった。でも今は違う。みんなが望んで作り上げた自由という理想が目の前にある。
「やらないという自由」
その自由を選んだ時、「やる」を選択した人との差が確実に開く。20代はまだわからない。後でやってもまだ取り戻せる。30代でちょっと見え隠れするが、「時間と共に昇進」というシステムの陰に隠れて、見える人にしか見えない。
そして40代。←ここで気づく!
「あぁ。自分はやらないという自由を選択していた」と。
でも時は戻らない。
中身がないなら外見を装うしかない。
根拠がないなら、なんとなくそれっぽくごまかすしかない。
そこから、ごまかしの25年がスタートする。これは自分からしたら苦痛でしかない。時間と共に引き続き上がる役職。一向に積み上がらない知識と根拠。新たな知識なんて入れる習慣も備わっていない。なぜなら「やらないという自由」を選択してここまで来たから。
それが時間の積み重ねとともに、真綿で首を絞めるように致命傷となり、外見や肩書きでしか自分を誇示するものがなく、最後には名の知れた民間企業に天下ることしか生きる道が無くなる。肩書きが外れたら自分の存在価値を見いだせないから。
技術者になりたい!と志して入った社会。出る頃にはそんなものどこにいったのやら。そんな人をたくさん見てきた。
自分はそんな人たちの若い頃の姿に憧れて社会に入った。でも、時が経って彼らは言った。「昔は君のように技術者になりなりたい!そう思っていた」と。