家族ってなんだろう
ここ最近のテーマ。「家族ってなんだろう」
血縁関係にある親族とか、配偶者とか、何となくこれかな?という定義はありそうだが、特に法律で定められたルールもなく曖昧だからこそ、とらえ方が様々あり多様化しているように思う。
血が繋がっていれば家族なのか?
まずは、最も家族の定義っぽいのが血縁だが、血が繋がっていても争いが絶えず、会うことすら滅多にしない関係を築いている人たちもいる。血が繋がっていても、時や空間を同じくすることを避けがちだと感じる。はたしてそれが家族なんだろうか?過去に比べ、拡大家族から核家族になり、少人数で生活する機会が増えた。少人数であれば大人数による不自由さが減り、自分の思い通りに生活しやすくなる。自分ルールが発動しやすく快適に過ごせる。
例えば、自分以外に配偶者と子供2人の計4人暮らしなら、3人を抑えつける地位に立ってしまえば独裁が可能。そこには聞く耳も不要、自分こそが正義。
血縁関係になくても家族として存在する配偶者
配偶者の存在こそ家族としての素晴らしい位置づけだと考える。誰とも血縁関係が無い。でも、家族の仲間に入る。では何がそうさせるのか?
家族の一員が縁あって出会った配偶者。馴れ初めは様々あるだろうが、時間をかけてお互いを知り、お互いの家族に紹介し、時には食卓を囲みながら談笑し、「また来てね」と家族が見送る。やがて、縁があれば家族になる。
一方で、過去に「亭主元気で留守がいい」という言葉が流行った。亭主が元気なことに越したことはないが、さらには留守の方がいいと思う人たちがいたということ、そしてそれが当時の国民の共感を得ていたこと。今も共感する人はいるのだろう。
家族と時間
家族になるには時間が必要なのではないか?相手がどんな人なのか?を知る時間。相手を知る時間を容易に作れるのが食事ではないか?
「同じ釜の飯を食う」と、昔の人はよく言ったもので、食事を通してお互いを出し合い、お互いを知り、お互いを認識する。その先に、信頼や尊敬、安心など、この人と一緒にいたいと思う強い絆が出来上がるものと考える。逆に、この人は合わない、一緒にいたら危険だということも判別でき、やがて食事に誘わなくなる。
亭主はもちろん元気であって欲しいが、本当に留守がいいのか?食事は黙ってサッと済ます方が効率が良いが、本当にそれで良いのか?用事が済んだらみんなそれぞれの部屋でバラバラのことをするのが本当に良いのか?自分たちは今、本当に家族と言えるのか?食卓を囲みながら、家族とは何なのか?を改めて確認する時間も必要ではないか?と考える。