小説、その不穏さ〜引用のドラマ(7)
ある新学期の初日、英文学者のアザール ・ナフィーシーは次のように講義をはじめた。
フィクションは何をすべきでしょうか、そもそもなぜわざわざフィクションを読むと思いますか、と学生に問いかけた。授業のはじめ方としては一風変わっているが、おかげで学生の注意を惹きつけるのに成功した。
『テヘランでロリータを読む』河出文庫、p.15
そうして続けた。
今学期、私たちはさまざまな作家を読んで議論することになりますが、これらの作家全員に共通するひとつの点は、既成の秩序を覆す不穏な力を秘めていることです。ゴーリキーやゴールドのように、体制の打倒をめざす政治的意志が明らかな場合もあります。しかし私に言わせれば、フィッツジェラルドやマーク・トウェインのような作家のほうが、たとえそうは見えなくとも、いっそう不穏なのです。不穏というこの言葉についてはまたあとで考えてみましょう。私の言う意味は通常の定義とはちがいますから。
前掲書、p.
例えば、小説を作り話に過ぎないものとして、現実の対極にあるものとして捉えるなら、以下の指摘はただ通り過ぎていくものになるかも知れない。ただ、小説から喜びを悲しみを、驚きを気づきを一度でも確かに経験したことのある人には届く言葉に違いない。優れた小説とは何か。あるいは小説の可能性とは何か。
最良の小説はつねに、読者があたりまえと思っているものに疑いの目を向けさせます。とうてい変えられないように見える伝統や将来の見通しに疑問をつきつけます。私はみなさんに、作品を読むなかでそれがどのように自分を揺るがし、不安な気持ちにさせ、不思議の国のアリスのように、ちがった目でまわりを見まわし、世界について考えさせたかを、よく考えてもらいたいのです。
小説。
その不穏さ。
自明性を脅かす点で旅と小説は共振している。旅において人は行為者から観察者へと変貌する。旅のゴールが出発地点だとするなら、読書のゴールは本を閉じた時かも知れない。ただ、もちろん読書の旅はページを閉じても終わらない。異界で過ごした余韻をひきずりながら日常へと帰還する。その時むしろ日常は、どこか違った姿で立ち現れるだろう。日常とページの向こうの世界は相互に境界線を侵し、曖昧に続いていく。