
わたしの「スター」は、
人を好きになって、できれば応援したいと思ったとき、目の前に広がるシステムに、何も疑問を抱かず、ただただ純粋に好きでいられたらいいのに。と願うことがある。
その、広く深い海にえいやっ、って飛び込んでみても、もはや「文化」と化したあらゆる応援の方法に、なんでかわたしは完全に同意できていなかった。みんなが当たり前にしている応援の仕方、好意の示し方、さらにはあちら側(応援している対象)からご丁寧に促される色んな「応援する」という行為も、なぜかわたしはしっくりくることが少なくて。
人生のたくさんのタイミングで、「この人(人たち)が好きだ!」と思える対象に出逢うことはあって、その都度それぞれのコミュニティが持つカルチャーを探っては温度感を確かめて、自分の立ち位置を俯瞰し、一歩ずつ入ってみようとするのに、そうすればするほど、最初の「好きだ!」っていう純度100%のきらめきを宿したあの感情が、遠く遠く、離れて薄れていって、最終的には「そもそも本当に好きだ」と言えるのか…?みたいな、せっかくの自分の感情を疑うところに終着してしまったり。
だから、適切な方法で人を応援できていないのかもしれない(できないのか、合ってないのか、はたまた違うのかはわからないけど。)って感じてしまうことがずーーっとあった。そもそも、適切な応援の方法ってなんだ?って。わたしの、わたしなりの好きの伝え方を、好きの保ち方を、続いていく自分の生活のなかで、どんなことをしていたって「想っているよ。元気をもらっているよ。」と、あちらに向かってわたしなりに外に出してみても、それは世にいう「応援」の仕方でもなければ、ファンとしての資格にも当てはまらないそうだ。じゃあ、わたしとその人(応援している対象)との関係ってなんなんだよ。ただ一瞬、心を奪われただけの消費者と、キラキラした何かを提供してくれた側の人的な、?至極ビジネスの匂いと隣り合わせな関係だな〜って虚しくなるときもあった。もちろん、アイドルを含めた芸能人は目に見えない何か(感情や体験)をファンに提供して、そこから生まれるあらゆる商売を通して、巡り巡ったそのシステムから発生するお金、それでご飯を食べているわけだから、いくらこちらがときめいた感情がピュアだからといって、それを守りたいがために「ビジネス臭を感じさせるな!」というのは横暴だし…(ちゃんとご飯食べてほしい。)
話が逸れた。わたしがずーーーっとなんだかんだでモヤモヤしていた、「あちら側の人たち」に向ける想いの保ち方に違和感があったその理由を、この本は誠意を持って伝えてくれている、と知れた本。
それが佐原ひかりさんの「スターゲイザー」です!!!!!!
わたしは佐原ひかりさんの著作が大好きです。
過去作品も拝読しており、新作が出れば読み、佐原さんがおすすめされていた作品にも手を出しています!(ブラブラ文庫化のときに、過去に出版社様の作品ページにメッセージを送り、掲載していただいているという旨をポストしたら、ご本人から反応をいただけて非常にうれしかったです。)
そんな佐原ひかりさんの新作。発売からしばらく経つので、たくさんの媒体やSNS、このnoteでも、詳細や感想など書かれたものがいっぱいあるから、詳しいことはそちら参照で。
ここでは、わたしが読んで考えたことをつらつらと書いてみます。
で、その上述の違和感っていうのは結局なんなんだい?って話は、おそらくこの本が、読者に、そして願わくば世の中に強く伝えたいメッセージに繋がる。それは、
アイドルだって、わたしたちと同じ人間だ。
ということ。
当たり前のことなんだけど、今冷静に考えればそうなんだけど、彼ら彼女らを取り巻く環境、いつどんなときにも社会や周囲から向けられる様々なことは、本当に人間に対して向けられてよいものなのか、それは許容できることなのか。立ち止まって、何度も考えさせられることだと思った。
この作品では、アイドルとしてデビューを目指すリトルたちが主人公。(いわばジュニアや練習生といった立ち位置)彼らが活動するにおいて直面する葛藤や、ひたむきに何かを目指す姿が描かれている。例えば、デビュー出来そうな年齢との攻めぎ合い、”職業”としてのアイドル、他メンバーとの実力の差、ビジュアルに対して、ファンとの関係。どれもあまりにリアルで、どれだけわたしたちが想像しても、きっとあの世界で戦う人にしかわからない恐怖と光が、ものすごい質量で詰め込まれてる。この物語の主人公たちはアイドルで、描かれる環境もアイドルのあるあるが多いので、アイドルを応援している(していた)人たちには、解像度高く読める部分もあるし、とはいえ、読む人を選ぶなんてそんな間口を閉じるような本ではないです。(本当にたくさんの人がこの本と出逢ってほしい)
誰かを応援したことがある人には必ずどこかで、自分と、誰かと、重なり合うところがあると思う。
・
わたしは、過去にも好きになったアイドルはいたし、今も実は数年前から好きなアイドルがいて、しかも彼(彼ら)がリトルたちと同じ立場だった頃から応援しています。(スターゲイザー登場人物内でいうと、デビューの寿命の部分において、若さまがいちばん境遇においては近かったのかしら、と思う)今では華々しくデビューし、お茶の間にも知られて、強みを活かして確立したキャラクターも浸透し始め、本当に素晴らしいなぁ…素敵だなぁ、好きになれてよかったなぁ…(彼の良さに気づいた私もなかなか見る目あるぞ〜^_^)と思うけど、結局は、冒頭に書いたように、その気持ちの保ちどころが時々分からなくなります。すごく、すごく好きなのに、ファンであればこうするだろうという、そのシステム化された気持ちの表し方に戸惑いを覚える。
そして、その戸惑いは、「人間を応援する行為として本当に健康的なのか?」という疑問から生まれるものだった、とこのスターゲイザーから教えてもらったのです。
・
「推し」という言葉を、あまり積極的に使いたいとはあまり思えない節がある。
とはいえ、ここまで推しという言葉が市民権を得ているこの時代。推し活が当たり前の趣味として認知されている今。ほぼ共通言語となったこの言葉を、わたしも使うときがある。例えば、友達と話すとき。同じ界隈のファン同士で話すとき。「ねぇ、推しいる?」なんてアイドリングトークに返事をするとき。自分が好きな人たちのことを、誰かに説明するのが難しいからっていう何とも自分本位な理由で、「好きな人」という意味で使うときもある。便利な代名詞になったものだ…と思うと同時に、「推し」と発するときに、心の中では毎回「ごめんなさい……」と謝っている。「誰に?」とは自分でも思うんだけど、きっとそれは、「一人の人間を、こんな便利にまとめてしまってごめんなさい」という意味だったんだ、と今なら思える。
アイドルも芸能人も、そうでなくても、誰でも人間である。だから、人には人の人生があって、他人には想像できない人生の面が存在している。人間だから心があって、わたしたちが彼らに毎度様々な感情をもらい、体験しているように、彼らにもそういう風に感じる心が現在進行形で存在する。そんな背景を、ぜーーんぶ無視したように彼らを扱ってしまう全ての行為に、わたしは多分すごく悲しかったんだと思う。推しという簡単で便利な言葉で、人間を消費しているような感覚に。
だからなのか、わたしは今のところ建設的な気持ちでアクスタを持てない。公式で販売されている写真とかも。(※極端です。あくまでもわたしの話。)両方とも、あまりにもファンコミュニティにおいてその需要が高いのか、ファンの誰をみてもどちらかを持っているのが常なような気がして、わたしも仲間入りをしたくって買ってみた経験はある。買うまでは楽しかった。どのタイプを買おうか選んだり、届くまでを待ち焦がれたりもした。でも、いざ手に入ると、それまでの気持ちの高揚が「買う前がピークだったのか…?」と言わんばかりに、どうすればいいのか、ほとほと分からなくなってしまったことがあって、そこからはもう何も手には出来ていないのです。本当にどうしたものか。届いてみたら、ただの写真。ただのプラスチックのちいちゃい置き物と化してしまった。わたしは、ただの写真に、プラスチックの板に、人間である彼らを記号のように投影して、消費していたのか、と自分自身にがっかりしたような気もする。
(※ここで一応書いておきたいのは、そういう商品を買うことをなにも否定したいのでは全くないということです。そういう応援の仕方が現にあるわけで。実際、購入すればいくらかは向こうにお金が入るし、それが積み重なって、できれば健康に楽しく生きてもらえたら、なんて思います。)
追記
(書いてしばらく経って推敲してみている間、お友達がインスタのストーリーで「とにかく仕事が辛い、けどすぐに終われないからがんばる(略)」っていう言葉を、公式写真を置いたデスクやアクスタを握った手元の写真とともに載せているのを見て、あ〜そうだよな〜ああいうグッズは、感情をモノにすり替えたり、好きを購買欲に繋げるようなものかもしれないって書いてしまったけど、ときに人の大事なお守りになりうるんだよな〜と思って反省した。モノに記号と化した好きな「推し」を投影しているって言ってしまったけど、記号と化したその対象やモノには、買った人それぞれが持つ思い出や感情も同時に込められているんだろうし、そもそもそういう気持ちが、ただの「モノ」を「特別なもの、お守り」にさせているんだよな、と。結局は、そのモノ自体がお守りなんじゃなくて、あなたがあなたしか感じ得ない思い出という名の感情こそが本当の「お守り」なんだよ!!!!!って声を大にして言いたいけど、いっぱいいっぱいで辛いときにはそんなこと考える余裕ないよね。だから、簡単でわかりやすく「好き」が表現されたモノが助けになったりするんだろう。反省。そして学びでした。)
・
でも、「お金を使わなかったらファンじゃない!」みたいなたまにある流れには、心が少し痛みます。お金を使うことで得られる感情に生き甲斐を感じている人はいて、それはそれで本人が良いのなら、とは思うけど、でもきっとみんながみんなそうじゃなくて、わたしたちにも生活があるからやっぱり予算はある。別に、お金を使いたくないとかではなくて、適切な使い所に使いたいよね、と思ったり。でも、じゃあお金を使わなかったらファンじゃないなんてそんなのは間違っていると思う。お金を使って得られるのは何なんだろうか、とよく考えます。新しい楽曲が発表されれば、CDやDVDをたくさん買ったり、ライブが発表されれば、全ステしよう!とか、たくさんライブに行くために、ライブ代を含めた交通費や被服費が必要。グッズを買ったり、安くはないお金を使うこともあると思う。充実感は確実に得られると思うし、そういうファンの在り方や応援の仕方に憧れを抱かないわけでもない。ただ、なんかこう、モヤモヤします。好きでいるためにはお金を使わなきゃいけないなんていうのも、一体どこで刷り込まれちゃったのかな、と思う。
・
わたしたちが見ているのは人間で、心が沸き立つことがあればそれは、人間、彼らが産んだもの。どこから入ったとしても、帰着するのは彼らが人間だということだと思っています。だから、わたしたちの「ファンとして得られる充実感」と「彼らをどんな風に扱ってしまっているのか」は、折に触れて立ち返って考えてみるべきなのかな、と思う。自分の人生の充実感と引き換えに、なにを消費してしまっているのか、と。
もちろん、自分達の活動を通してファンが喜び、生きることが楽しくなるのなら、きっとそんな姿を彼らも望んでくれている、はずだと思いたいので、いわゆる「推し活」は、自分の心の健康と懐具合を苦しめない程度に楽しもうじゃないですか。ただ、ファンとしてのアイデンティティを保つために、彼らの存在を軽んじることだけは、度が過ぎていくと、双方どちらも辛いな、というわけです。
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わたしは、人間を応援したい。
アイドルを好きになるとき、最初はお顔立ちを含めた見た目やパフォーマンスの煌びやかさに心ときめくところから「この人好きかも!」って沼に入ることはあります。でも結局「あぁ、本当に好きだ…」と確信するのは、決まって、その人の内面を垣間見たときです。考え方とか、こだわりとか、魂みたいなもの。わたしの好きはきっと、尊敬や憧れを大いに含んだものなんだろうな〜と勝手に思っています。だから、尊敬し憧れる相手を、軽々しく扱いたくない。きちんと、対人間への好意の示し方をとりたい。もしも、「その相手が本当に自分の近くにいる人だったら」って思ったときに、彼らを消費するような接し方をしたくない。
いつまでも、どこまでも、「尊敬する相手」に対しての精一杯の気持ちの伝え方をしたい、と思う。
だから、わたしはこれからも、「本当にこれでわたしはいいのか…?」って自問自答して考えながら、愛を持って応援したいです。それが、みんなと同じように応援できる方法と重なるときは、全力でそれを通じて気持ちを示したいし、違和感があるときは、誠意を持って立ち止まり、ただ静かに好きでいる、をしたいと思います。
彼らが、アイドルとしての自分を誇れるようになることはとても素晴らしいし、ファンとしてはそれはうれしいことなんだろうけど、それによって生まれた彼らの像が知らないうちにずんずん一人歩きして、苦しめられないことを祈ります。だから、彼らにはいつでも立ち止まれる自分でいてほしい、なんてわがままを思う。誇りをもって仕事できることは素晴らしいけど、その偶像に、全身全霊を捧げて身を削ることを当たり前とするようなシステムに、どうか殺されないでほしい。
最終的には、そんな肩書きを外して、人間としての彼らの意思が尊重されることを。
どこまでも、彼らが人間としての自分自身を大切にできる環境を、勝手ながら心から願っています。
つぶやき
・スターゲイザー、歌詞が好きです。
頭の中で鳴りました。きっとこんな感じだろうな〜〜って。ステージに立っている彼らを照らす光はきっとこんな色だろうな〜とか。読者に想像させてしまう佐原さんの緻密な創り込み方と、まるで読者へのプレゼントのような余白の残し方に圧倒されるラスト。きっと誰かを応援したことがある人たち一人一人の記憶のなかにある、かけがえのないステージを思い浮かべてしまうと思う。(みなさんのなかで舞う彼らがどんなか、ぜひ知りたい。)わたしの中のあの曲は、4つ打ちの甘酸っぱいビートに、少し鋭さの香るような曲な気がするんです。
・最後の10ページくらい、涙が止まらなくて全然読めなかった。久しぶりに読書中にめそめそ泣いた。あなたもわたしも、アイドルだろうがファンだろうが、絶対にみんなで幸せになろうね。と思った。
・装丁だ〜〜〜いすき!!金箔の文字がキラッキラで、タイトルに相応しいまばゆさ。単行本を買う醍醐味だなぁと思います。佐原さんの作品関連のアートワークはどれも、選ばれるまでの文脈を知りたくなるし、小説のストーリーにさらに物語を加えるような役割を担っている気がしているので、毎度楽しみ。このnoteを書いている期間に読んだ、担当編集者様のnoteに装丁のお話も書かれていてとっても胸が踊った。なにより、担当編集者さんが同年代(23卒の2000年生まれ、わたしはその一つ上の歳)ということに驚きです。作家さんが同年代だったり年下だったりするのを知ることはあったけど、本を届ける役割を担う方も、歳が近い方がいるんだな〜!すごい!尊敬!って気持ち。(現役当時、出版就活全滅だったので本当に尊敬の眼差し)
集英社文芸公式様のページに載っている記事がこれです〜!
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・アイドル練習生、やはり定年制を設けるべきでは??とちょっぴり思ったり。夢を追いかける人たちに、抗えない「年齢」という基準を設けて諦めさせろっていうのはまた違うし酷なことだろうけど、若さまや大地のように、迫り来る天井をただ見つめながら、あるかどうか、見えるかどうかも分からないゴールを、大人やファンが夢のように見させてしまうのも辛いと思った。
追いかけさせるなら、せめてやり直せる退路を。
貴重な青春を捧げて夢を追いかける人たちに、それしか道がなかったと思わせてしまうのは、本人も、応援していた人にも辛い部分がありそう。また別の誰かと同じタイミングで、何かに進めるチャンスを掴めるシステムは、きちんと備えておく必要があると思う。
つぶやきじゃないつぶやきになったと、推敲している今反省しました。(後日談)
あなたも、わたしも、誰かのスターゲイザー!