【努力考察】自己肯定感駆動型努力とダーウィニズムのサーキュラーな共通点
こんにちは!そこそこインテリそこそこマッチョなUtakuです.
(/・ω・)/
突然ですが皆さんが努力する理由は何でしょうか?
私のtwitterにおけるフォロワー様は筋トレにいそしんでいる方や,筋トレ+αで努力されている方が多く見受けられます.
皆さまそれぞれの目標に向かって努力されていてとても素晴らしいと思っています!
全人類が自分の思い描く”完璧”を追求し続けたら,人類全体がまた次の領域に移行できるのではないか?
的な中二思考で日々生きております笑
そこで気になるのが皆さんを突き動かすものは何なのかということです.
筋トレに限った話ではありませんが,何かしらの努力をする際はしかるべき理由を伴うと思います.
勉強だったら
・資格を取って自己研鑽したい
・会社の業務のためのインプット
・趣味で覚えたいことがある
筋トレだったら
・競技のためにパフォーマンスアップしたい
・かっこいい体になりたい
・健康維持
等々だとおもいます.
おそらく”自己肯定感を高めるため”に努力してる方もいるのではないでしょうか?
筋トレをしていると自分の体が大きくなることや,重いウェイトを挙げることができるようになって
なぞの”俺強い感”が芽生えますよね?笑
強いと言っても格闘技とは異なって相手を倒すというよりかは
『信管が抜かれた爆弾を積んだイージス艦』
くらいでしょうけれどね笑
でも自分に自信が持てるようになるのはとてもいいことです.
仕事以外の趣味の時間を自分を高めることに使っているという点で”自分はちゃんと生きている”みたいな気持ちになるのではないでしょうか?
このような努力を,自己肯定感の追求動機として行われる
『自己肯定感駆動型努力』
と名付けましょう.
私も自己肯定感駆動型努力に陥ることがよくあるのですが,私の考えでは非常に危険な側面を有していると思います.
今回は,そんな”なんのために努力すればよいのか”のおはなし
1.努力の特徴:全射性,絶対性/相対性
第1に努力の全射性についてです.
これは以前の記事にも書いたことです.↓
この記事の内容をまとめますと
自分が目標とすることのために努力をしたとしても,それが必ずしも結果に結びつくわけではないということです.
『継続は力なり』
は数学的に言うと任意の継続に対して,ある結果が存在するという全射の関係があると考えました.
ですから,Aを達成するためにBを行ったとしても,その努力Bが必ずしも結果Aに結びつくわけではありません.
一見,努力Bが無駄になっているようにも見えますが,長いスパンで見れば,努力Bが全く考えてなかった結果Cや結果Dと後々対応することもあるのです.
第2に絶対性と相対性についてです.
これは以前の記事でも書いた,私が結果論派ではなく過程論派であることと関連します.
例えば,給与に結びつく仕事については結果がすべてで構わないのですが,私の内内では,過程を重視したいと考えています.
これは,先に述べたように,自分が望む結果は必ず訪れるわけではないことに加えて,結果は絶対的なものではないからです.
ある結果を得た時,それは自分のなかすなわち自分の絶対的尺度では最高のものであるでしょう.
今までよりも高いレベルの資格を取得した.
ベンチプレスの重量が5 kg上がった.
等々の過去の自分ができていなかったことができるようになれば,自分の絶対的価値基準では得られた結果となります.
この結果ですが,それに満足感を得ることは妥当なのでしょうか?
私も筋トレを始めたころは,ベンチプレス60 kgが上がったときかなりうれしかったです.
パワーラックに付属しているプレートの最高重量は20 kgだったので,シャフトが20 kgとして,一番大きいプレートが左右についた状態になります.
見た目でも重い感出ますよね笑
でも例えばそれで
”ベンチプレス60 kg挙がった! 俺フリーウェイと強い!”
とかツイートすると,アンチコメントの温床になるわけです笑.
↓アンチコメントの記事はこちら
これは,どんなに自分の価値基準において絶対的に過去より重いウェイトであっても,世間一般(というよりトレーニー界隈ですかね)の価値基準では,100 kgからやっとベンチプレスの世界が始まるみたいな考え方があったらとりとめのない重量になるということです.
(当然,それについてアンチコメントをする方は他人の努力に対する共感力が欠如しているので人間としてどうかと思いますが)ここで主張したいのは,60 kgが軽いからダメとかではなく,結果に対する基準はあくまで相対的なものであるということです.
2.結果は不確かである
1.では,結果というものは,イ)自分が思い描いたものになるわけではなく,ロ)その評価基準は自己の絶対的なものと,他社との比較による相対的なものがあると述べました.
これらから,結果は非常に不確かなものであるという考えが生まれます.
一回読んでやたら気に入っているホロンの概念を用いて述べます.
↓ホロンの概念の参考記事
努力の評価については,自分の絶対的な価値基準と一般の相対的価値基準の両方が重要と考えます.
過去の自分を超えるという観点では,自分の価値基準だけ重視すればよいのですが,それだけだと成長が止まると考えるのです.
一般の相対的価値基準を採用しているとき,自分は相対的価値基準として世間にいる様々な方と比較するという観点で様々な相対的価値基準にさらされます.
これは,自分が相対的価値基準の部分になっている状態と解釈できます.
対照的に,自分の絶対的な価値基準を採用しているとき,全体は自分となります.
この”自分は全体の一部であり,自分という全体そのものでもある”というのはちょうどホロンの概念に相当します.
ここで難しいのは,どちらの基準をより重要視すればよいのかということです.
ちょうど良い質問を質問箱に頂いたので,引用します.
自分が出来ないことを,もっともらしい理由でごまかしてしまいます.うたくさんはそんな事ありませんか?
よくあります笑
例えば分かりやすいので減量期と増量期で例示します.
■減量期で体重が減った
+思考:筋肉キープして脂肪のみが減った!順調!
ー思考:カタボって筋肉だけが減った…このままだとサイズダウンだな…
■増量期で体重が増えた
+思考:脂肪はそこそこで筋肉が増えた!リーンバルク!
ー思考:重量は挙がってないから多分脂肪だけが増えた…減量大変そうだな…
という具合です笑
この,”自分が得た結果について自分がいいように解釈してしまう”ことを自己奉仕バイアスなんて言うそうです.
結果の評価尺度の絶対性および相対性とは少し離れますが,自分が得た結果についても,+と-どちらの考え方も適用できると思います.
このとき,自分の絶対的評価ではなにかをしたときにかならず前回の自分よりは付加的に何かアクションをしているはずなので,必ず,自分の評価だけ持っていると必ず自己奉仕バイアスがかかりがちです.
満足感を得てしまいます.
ここで,ふと世間を見渡す,すなわち相対的に評価するととかならず自分よりも結果を残している人がいると思います.
ボディメイク派のトレーニーからしたら,ミスターオリンピアにはたどり着くのは難しいでしょうし,勉強好きの方にとっては,ノーベル賞を取っている方を超えるのは難しいと思います.
この考え方では,自分が出した結果に対して謙虚な姿勢が生まれてこれからの成長の糧となるでしょう.
『自己肯定感駆動型努力』の観点では,自己肯定感を得るために,自分の満足感を重視して自分の絶対的評価を採用すればいいです.
対して,努力の本質である過去の自分を超える観点では,相対的な評価尺度を以って常に現状に満足しない姿勢も重要です.
様は,このどちらも保ったホロン的な状態で,どちらにも偏りすぎない考え方を持つのが重要なのです.
この流動性,すなわち絶対的評価尺度と相対的評価尺度のはざまでバランスを取っている様子こそが,結果の不確かさになります.
3.結果の不確かさへの対応方法,ダーウィニズム的な論点回避
ここまで述べた中でも,結果を求めて努力して,その結果を以って自らの自己肯定感とするのは,結果の流動性から危ういことが分かると思います.
結果の尺度は様々であり絶対的ではないからです.
ここで,過程論とダーウィニズムが登場します.
過程論は単純に過程を重視するということです.結果自体が自分を必ずしも慰めるものではないのですから,努力の全射性を頼りに努力自体に価値を見出すのです.
さらに自己肯定感と努力の対応を完璧に近づけるために,ダーウィニズムにおける循環論法を採用します.
ダーウィニズムの主要な考え方は”適者生存”だと思います.
この適者は単一の生物個体ではなく,ある生物種と考えてください.
リチャード・ドーキンスの”利己的な遺伝子”によれば,下記の通りとなっています.
適者:後世に自分の生物種の遺伝子を残しやすい種
生存:後世に自分の生物種の遺伝子を残すこと
生物の最上の目的を子孫繁栄とすれば,最も適するということは,自分がおかれた環境において最も効率的な食事や適用方法を採用する能力を受け継いできたものとなります.
また,生存については単一の生物個体で考えるとただ自分の人生を生き残ると解釈されてしまいますが,生物種でみると長い年月命を繋ぎ続けるということになります.
以上を踏まえると”適者生存”とは,”後世に自分の生物種の遺伝子を残しやすい種が,後世に自分の生物種の遺伝子を残す”となります.
完璧な循環論法です.
自己肯定感は自分が生きていくことの源泉になると思うので,この生物学のにおける考え方を採用しましょう.
結果は必ずしも自分が望んだように補償されていないので,平気で裏切られることが想定されます.
よって自己肯定感の源泉を”努力をして結果を得るために生きる”としていしまうと,結果が得られなかったときに自己肯定感が下がり,生きるモチベが消滅します
(もちろんそれ以外にも自己肯定感の源泉はあるの即タヒぬわけではではないですよ(;^ω^))
ですから結果を求めて努力する,そしてその結果を以って自己肯定感の源泉とするのは個体の存続の観点から非常に危険です.
ではどうすればよいか?
まず,自己肯定感の源泉を”努力するために生きる”としましょう.
そして,努力することに意味を見出して”生きるために努力する”も同時に掲げます.
そうすれば
”努力するために生きる”
”生きるために努力する”
を同時に掲げる循環論法もどきの完成です.
いいですね.自分という種が存続されます.笑
4.まとめ
今回は,結果と求めることの危険性について述べて,努力に意味を見出すことの重要性を考えました.
また,
”努力するために生きる”
”生きるために努力する”
という循環論法もどきを掲げることで,努力を自己肯定感と関連付ける論理を完成させました(?)
結局,
・たまには,自分の努力に自信をもつ.そして,満足したら他人と比較して向上心を得る.
・努力すること自体に価値を見出す
というのが努力や結果とうまく向き合う方法だと思います.
ですから
自信過剰な方->もっと周りを見ればもっと向上心持てますよ!
自信がない方->過去の自分と比べてください.必ず何かしら進化しています.
努力というふわっとしたものには明確な答えなんてないのでしょうね
愛と一緒で一生探求していくものではないでしょうか?(遠い目)
ではまた ( ・ω・)ノシ
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