内面化される畜犬本能
犬という動物がいる。
私は犬を飼っている。犬が好きだ。何せかわいい。
犬には人との社会性があり、そこが評価される。
しかし、これらの飼い犬が最初から人との社会的交流を持っていたわけではない。
何世代も交配を重ね、人の都合よく繁殖を促され、半ば強制的に人間に従うように改良された。
言わばその血肉に、社会性を刻印されるわけだ。
実は人間も同じようなことが言える。
人間は欲求でのみ行動すると、裁かれることを教師や親から学ぶ。
人に危害を加えないこと、愛することや助け合うことが良いこととする、道徳という教育でまず行われる。
それは時に、欲求の反対であること、優しくすること、助けることが良いこととなる。そしてその反対の行動は悪い、悪とされる。
そしてそれは外部からの教育から習慣となり、習慣から内面的価値観に変化していく。
犬のように親世代から道徳や倫理を植え付けられ、次の世代へ伝える。
このように、飼い犬的社会性を世代的に植え付け、育てる。
内面的価値を植え付け、家畜化する。
それが社会的価値観であると言ってもいいかもしれない。
そして時に人はこの内面化された社会的価値観、ひいては自己同一化した価値観を汚されると、自分が侮辱されたかのように騒ぎ立て、価値観を汚した人間を執拗なまでに叩く。
でも結局のところ道徳で内面化された人間はその道徳を理由に退行的に他者を裁きたいに過ぎない。
ここに残酷なまでの、暴力性という性質が顕現される。
それは道徳性を持ち出してそれを守らない者は徹底的に潰しても構わないという心理だ。
道徳を隠れ蓑に、自分の暴力性や残酷性を弁護し、正義の名の下に他人を叩く。内面化した道徳を用いて他人に対して暴力であることを合理化し、あまつさえその快楽に溺れる。
SNSにはそれが顕著に現れている。
著名人などの不倫報道があるとそれに乗っかって自分たちも正義を下す。
こうして飼い犬的社会性は時に暴力的に、残酷な結果を生み出す。