死ぬなら誕生日がいいな!
誕生日って、不思議ですよね。
1年の中のたったの1日、何十年前かに両親が出産というイベントを乗り越えた日。
どちらかと言えば両親が、お疲れ様!と祝われてもいいと思うのだが。なぜか産まれてきた側がよく得をしている。
誕生日なら何しても許されそうな気がするし、誕生日プレゼントとして欲しいものをもらえたり、友達や知り合い、ましてや産んだ側の両親ですらお祝いの言葉をくれたりする。
変だな〜〜〜わたしは祝われるようなこと、何もしていないのにな。
おおよそ高校生までは、なぜか得をする誕生日が普通に好きだったけれど、最近はあまり好きではない。こんなに承認欲求で塗り固められた人間なのに。
誕生日なんてきても歳とるだけだからもう好きじゃないよ〜なんて言うご年配の方々の意見は置いておいて。
望んでもない記念日を押し付けられている気がしませんか?見当違いに、わたしに。
「誕生日」が他の毎日と差別化されていることで、「誕生日近辺のわたし」も他の人たちと差別化されなければならないのかと、考えてしまうのです。
誕生日に普通に1日を過ごして(労働して叱られるのは流石に嫌だけれど)、いつも通りのご飯を食べるのは寂しいことなのか??人よりも幸せを感じることができなければならないのか??と無駄な思考が巡ってしまうし。
(あとシンプルに、祝ってもらったあとに喜びを表現するのが苦手なのです。素直な感情の表出が恥ずかしくて。とっても嬉しいのに、期待通りのリアクションができているか不安なのです。)
はい、勘のいい皆様なら表題の意味にお気付きでしょうか。
望んでもない記念日の最大値は、「命日」だと思っています。
どうせなら1日にまとめてしまえば負担を最小化できるのでは??という天才的な思考に辿り着いたのが、25歳のわたしです。
経験上、この世から去っても、故人の誕生日は思い出されるものです。
わたしがいなくなっても尚、「誕生日」と「命日」を特別化されるのはとっても申し訳ない気がするし。
日本の皆様、誕生日を設定し祝う文化を、無しにしませんか??1日1日、毎日を大切にして、好きな時にケーキを食べて好きな時にプレゼントを渡して好きな時に自分を甘やかせる人生にしませんか??
いつもいつも生とか死とか、人生とか価値観とか抽象的なこと言いやがって…更にはこんなにまとまりのない文章を書いてしまいました…恥ずかしい…
ま、良いか!!わたし今日、誕生日だし!!!!
今日は、マブダチと美味い肉を食べて、1人で映画を見て、大好きなパンプキンスパイスラテ無脂肪乳変更ホイップクリーム抜きをグランデサイズでテイクアウトして、お家でダラダラ過ごしました。最高。
25歳も、強く生きていこうと思います。よろしくお願いいたします。
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