あのときの亀
休職する前、まだ以前のグループに所属していたとき、同じフロアにものすごく腰が低い男性がいた。
どこの誰であるのか知らなかったし、おそらく先方もそうだったと思うのだけれど、ちょっとすれ違うときやなんか、特別わたしだけに丁寧なのではないかと勘違いしそうになるような挨拶をされる(誰に対してもそのようだった)。
こちらも神妙に挨拶を返す。
何度かそれが続いたあと、いったいどの部署の人なのかと目で追っていってみた。ふうん、なるほど。
社内連絡簿でその部署に在籍する方々の一覧をみる。わからん。役職や担当の仕事などからなんとなく消去法で絞っていくが残り数人から先がどうにもならない。ダメだ、わからん。
あるとき席で問い合わせの内容に答えるか何か調べ物をしていたとき、誰だか知らん大きな声が聞こえてきた。
わたしの席から一番近い、とは言ってもそれなりに距離のある打ち合わせスペースから聞こえてくるようだった。
休職する直前くらい、もともと穏やかとは言えないわたしの感情の起伏はもはや手に負えなくなっていて、しかもそのことに気づいていなかった。
所属するユニットのリーダーには「なぜそんなに目くじらを立てるの?」とか「多様性として受け入れられない?」とかいった言葉をかけられ、死ぬほど反発し、ちょっとしたことで周囲に食ってかかり腹を立て涙をこぼし、家で1人のときでさえ何度も叫び出しそうになっていた。
そこへ大声が聞こえてきたんである。
あまり詳しくないことを調べていたわたしは一瞬で集中力を失い、話の内容に耳を澄ませた。
「何々に「さん」なんてつけなくていい」「意味のないグラフなんか無いほうがマシだ」というような言葉が聞こえてきた。
は? 何言っちゃってんの?
「さん」はつけるだろう「何々」に「さん」は。だいたいそういうのは個人の流儀であって他人にあれこれ言われるようなことか?!
関わりのある他者には等しく敬意を持つんだよ、そして、その結果として言うまでもないことではあるが、「さん」をつけろよデコ助野郎!!!!! グラフのことは知らん!!!
そこまで思ってから一度深呼吸をし、いったいどこの誰がどこの誰とそんな話をしているのかと様子を伺ってみた。
なんと、例の丁寧な人が怒られているではないか。
あんな礼儀正しく低姿勢な人ならそりゃ「さん」はつけるだろうなあ、といまなら思うことができるけれど、そのときわたしは荒れていた。
容易に想像はつくがまったく理解しがたいことに、わたしはその大きな声の見ず知らずの相手に文句を言おうと思い、打ち合わせが終わるのを待って立ち上がった。
さすがに「さん」について何かを言うのは無理があったので、単に「うるさい」と言ってやろうと思ったのだった。
が、その人はフロアの端の通路のようなところではなく、机と机のあいだを縫うようにして自分の席へと歩き出した。
いくらわたしが向こうみずでもフロアのど真ん中で知らない人に喧嘩は売れない。
ここはいったん仕切り直すことに決め、まずは誰なのかを見届けることにした。
ありゃ、長だ。
あろうことかわたしの所属する数百人からなる部署の一番上の人ではないか。
ははーん。
ははーんじゃないよ、引き下がるのか。
引き下がったね。ダサ。
ほどなくしてわたしは休職し、休職中に異動し、試し勤務を経て復職した。
最初に挨拶したのが↑の人である。
わたしの当時の上司が「これこれこういう人間がいて、いまは体調を崩して休んでいるがこういう能力があり」とかなんとか持ちかけてくださった結果わたしを受け入れてくれたまさにその人である。
わたしこの人倒そうとしちゃった。
なんかこう「亀をいじめるな!」みたいな気持ちだったんだよネ。
亀を、亀をいじめ…
いや、倒さなくてよかったー!
「あのときの亀です」
「えっ!」
「〇〇です」
「あ、は、はい、〇〇(わたし)です」
「「よろしくお願いします」」
あのときの亀と同じ部署になった。いまは一緒に仕事をしている。あのときの亀は変わらずにめちゃくちゃ腰が低い。