共感を呼ぶ、あるエッセイストの話|「清少納言を求めて、フィンランドから京都へ」を読んで
現在絶賛放映中の大河ドラマ『光る君へ』。
機微な人間模様や空間の美しさにまんまとはまってしまった。なにより、12月までこの世界に浸れると思うとワクワクする。普段大河は見ない私が見るきっかけとなったのは、フィンランド人のあるエッセイだ。
今回の大河の主人公まひろ(紫式部)と対比して描かれることの多い、枕草子の作者・清少納言。本作は仕事やプライベートに嫌気がさしていたフィンランド人の著者が、職場の長期休暇制度を活用して(そもそもこの制度が羨ましい)清少納言を研究するために遥々フィンランドから京都へ訪れた際の出来事を綴ったエッセイとなっている。
本の中では”セイ”は研究対象のただの歴史上の偉人を超え、著者にとって一番の理解者・親友として記されている。時間を見つけてはセイがいたであろう場所に赴き、着たであろう単衣を着て、語りかけ、想いを馳せる。とにかく著者のバイタリティと徹底したエンパシーに終始圧倒される。
では平安時代を生きた清少納言は、なぜ現代のフィンランド人を時空と国境を越えた京都に来させるまでの衝動を生んだのだろうか。
思うに、それは清少納言が残した『枕草子』が日記・エッセイ形式だったからではないか。
物語ではなくあくまでノンフィクションであるため、著者である清少納言自体に想いを乗せ、強く憧憬を抱かせたのだろう。
セイが日記を人に見せたかったどうかは定かではない。ただ、承認欲求まみれの文章でないからこそ生きた想いが溢れており、読んだ人が共感できる『作品』になったことは確かだ。
で、このエッセイを読み、私も著者にすごく興味を持った。退屈な日常を抜け出しとことん好きなものを追いかけて人生を考え直すにまで至る様は、ただのオタクだと片づけるのはもったいない。出不精で広く浅く派の私には、特別輝いて映った。
本作で特に好きなのは、ところどころで出てくる枕草子をオマージュする文章。なんだか友達と話してるみたいで、滲んでくる著者の人間性に愛おしさすらを感じる。(著者もセイの文章を読んで、同じように感じたのだろう。)
セイは一定の場所に留まり、そこから感じ取る季節の移ろいや自分の感情を綴った。経験の特異性ではなく、セイが経験したから残せる文章がそこにはある。
何でもない日を、切り取り方で特別な日にできる。
自分のためにも、誰かのためにも、そんな文章を書けるようになりたい。
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