【ショートストーリー】とりあえずコーヒー
大学4年の冬。卒業論文の提出を1ヶ月後に控えた千春は、今日も図書館の一角でパソコンに向かっていた。
2階のパソコンルームには大きな円卓が5つ、島のように並んでおり、それぞれの円卓に4つずつパソコンが設置されている。
千春はいつも一番奥の円卓で、部屋全体を見渡せる向きに座っていた。
パソコンの脇には参考文献やプリントアウトした先行研究、そしてタンブラーに入れられたホワイトモカ。
一息つきたい時や、ここぞという頑張り時には、大学にあるスターバックスで買ったホワイトモカを飲みながら作業するのが定番だった。
分析結果のまとめや先行研究の整理、表・グラフの作成など、提出までにやらなければいけないことは終わりが見えない。
図書館が閉まるギリギリまで夢中で作業し、下宿先のアパートに帰るのは夜中の0時過ぎ。
そんな日々が続いていた。
***
一生完成することがないかのように思われた卒業論文を無事書き上げてから1年後。
千春は大手銀行の本社オフィスで融資関連の仕事をしていた。
千春が入社した年の4月はちょうど緊急事態宣言が出されたタイミングで、そこからしばらく在宅勤務が推奨されていたから、課のメンバー全員が出社して顔を合わせるのはこの日が久しぶりであった。
「せっかくだから、チームの皆でランチでも行こうか。」
久々に全員揃って嬉しいと言わんばかりに、課長が一人一人に声をかける。
時刻は11時30分。在宅勤務の時はいつも13時ごろにお昼を食べているから、正直まだあまりお腹は空いていない。
けれどもここで首を横に振るわけにもいかず、コートと財布、携帯を持って先輩たちの後に続いてオフィスの外に出た。
課長が選んだお店は、隣のビルの中華料理店。
本格的な円卓があり、大人数でのランチをするには定番のお店だった。
「ハイ、お粥ご注文のお客様〜」
千春の背後から中国人の店員が突然大きな声で呼びかけてきた。
少しビクッとしながらそっと手を挙げ、店員からお粥を受け取った。
「君、お粥好きなの?」
向かい側に座っている課長が物珍しそうに尋ねてきた。
「あ、はい・・・。割と好きです。」
本当は、他の料理がどれも量が多くて食べきれそうにないから、仕方なく選んだのだけれど。
食事を終えた後、課長がコーヒーを奢ってくれるというので、皆でスターバックスに行った。
「とりあえず全員コーヒーで良いかな?」
全員黙って頷く。
千春もブラックコーヒーが飲めないわけではなかったので、すぐさま首を縦に振った。
***
お昼から戻り、午後の業務にあたること数時間、時刻はすでに21時を回っていた。
この部署は顧客からの問い合わせ対応や他部署との連携が多く、いつも終わる時間が読めない。
自分がいくら頑張っても、相手の都合で待ちぼうけをくらったり、時には業務が増えたりする。
本当は昨日受け取るはずだった他部署からの情報を元に、週明けに使用するための資料を仕上げ、千春はパソコンを閉じた。
「ああ、これでやっと帰れる・・・。」
荷物をまとめ、ふと周りを見渡す。いつの間にか千春以外誰もいなくなっていた。
右手にカバンをもち、左手にコーヒーのカップを持つ。半分以上中身が残ったコーヒーはすっかりぬるくなっていた。
そのまま給湯室にむかい、残ったコーヒーを水道に流し込む。
空になったカップをゴミ箱に捨て、オフィスの電気を消してビルの外に出た。
駅に向かう道には飲み屋が立ち並んでいる。
金曜日の夜はどのお店も賑わっていて、ビールを片手に語らうスーツ姿の人々で溢れていた。
千春はお酒が飲めないので、ビールがどんな味かよく分からない。苦いと聞いたことがあるくらいだ。
「まあ、コーヒーみたいなものなのかな。」
ジョッキいっぱいに注がれ、すっかり泡の消えたビールを横目に見ながら、千春はそんなことを思った。