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一粒のお米には7人の神様がいる

「稲作にチャレンジできる時ってそうそうないから、やる?」
と予想もしていなかったご縁で一生懸命お米造りに勤しんだ約8ヶ月。

家庭菜園すらまともにしたことがない自分が、 機械も使わず全て手作業で、しかも農薬肥料も使わない自然農という方法でのお米造り。
よくやろうと思ったよなぁ

農薬を使わないということはその分草の手入れが必要で、これが本当に大変、、!
雑であればモグラが田んぼに穴を開けてしまったり、稲の成長の妨げになってしまったり他の田んぼの迷惑になってしまう。
いくら人や自然にとってもいいと言われている自然農も、まだまだ農村には受け入れ難い状況みたい。


そんな中で受け入れてくださった村の方々や、全くの初心者に大事な土地を学びの場として提供してくださった先生。

狭い面積とはいえ、いろんな人たちが一生懸命に開墾して、大事に守り続けてきた大地を自分が管理するなんて(しかも仕事も続けながら)自信がなさすぎて
すぐには決断できなかったけれど
なんだかんだで挑戦してみて、無事にお米を収穫して両親や友人たちと一緒に食べることができて
ほんとうにこの約8ヶ月間、頑張って良かったなぁっておもう。

ところで、一粒のお米には7人の神様がいるらしい。
土に栄養をくれたり生態系のバランスをとってくれる虫、
稲を元気に育てる栄養のある土と水、
夏の命であるお米に適した温度に上げる太陽、
その太陽光を程よく遮る雲、
稲の受粉を促す風、
愛情をもって土壌や水、草の管理をする人間。
この7人の神様のちからが合わさってはじめてお米が造られると。

お米を育てていると話をすると、
「へぇ!すごいねー!」と褒めてくださるときもあったけれど
自分はお米を「育てている」のか?
たしかに水を入れたら草を刈ったり、手入れはするけど育てていると言うとなんか心に引っかかる。

実際に育てているのは自然の営みであって、自分が育てたわけじゃない?とか思っていたけどこの7人の神様のなかにはちゃんと人間が入っている。

この7人の神様でいう、人間の役割ってなんだろうと考えた時に
ほかの自然の営みの働きは身体を大きく順調に成長させるものだとしたら 
人間はなんというか、お節介なチャキチャキお母さんという感じ。笑

人間でいうベイビーベッド(苗床)を作って、そこに種を落として布団(草)をかける。
成長具合を見守って、大きくなったら外へ連れ出す。(田植え)
大きくなっても見離さずに、ちゃんと水飲んでるの?!とか言って水を入れてあげたり様子を見て乾燥させたり、倒れてたらちゃんと立たせてあげたり。

7人の神様のなかで唯一、お米に愛情を注ぐことができるのは人間だけ。

お米は特に、人間と共依存の関係で
お米は田んぼという人間が管理したところではないとなかなかここまで沢山育たないし
人間にとってもお米は大事な主食。

実るほど頭を垂れる稲穂かな

今は農家なんて泥臭いって印象持たれがちだけど
かつて大昔は農婦は神聖なものという共通認識があったと確か福岡正信さんの「わら一本の革命」に書いてあった。  
 
自分の力では及ばない、コントロールのきかない自然の営みが時には自然を壊してまた自然を生み出して。
そんな時に人は願うもの。というか願うことしかできない。笑
お願いだから台風くるな〜!とか、いい加減雨降ってください〜!とか笑

どれだけ人間だけが頑張っても、最終的には自然が頼りなところもある。土に触れると、農と信仰や宗教は切っても切れない関係なんだとよく体感できた。(お祭りや行事が衰退していってしまうのにも納得だけど悲しい)

願う者と願う対象がいると書くと、わたしが自然や神様に願う、とかどうしても別個感が出ちゃうけど
7人の神様のように本当に人間もその中にいるなら
自然のなかで愛情込めて頑張っているあいだくらいは、なんか自分もその神聖なものの一部になれている気がする。
きっとそういうところに昔の人たちも神聖みを感じていたのかもしれないなぁ〜

緑色の未熟米が多いけど、面倒を見てきたお米たち。
愛おしい!

街中や畑に関係なく同じ大地に立っていても、持続的に優しい自然の営みにできる限り溶け込めるのか
その営みを知らず知らずのうちに抑えたり切ったり汚してしまうのか。

外ばかりがきれいで大きく、心がないものを生み出さないように
母のような愛を持って

できるかぎり自分が美しいとおもう選択を
楽しみながらしていきたい。


・・・すべての農業労働を
冷く透明な解(析)によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲に高めよ・・・
(宮沢賢治)


今年はどこで種を繋げれるだろう。
また来年、みんなでご飯が食べれるように
いいご縁に巡り会えますように🌾!!




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