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能動的且つ主体的な人生観の再構築について(後編)~楽しい人生のための礎~


まえがき

 どうもKyojinです。前編では自力で自己肯定感を育てなければいけない理由とその方法について説明しました。前編をご覧になっていない方はまずはそちらをご覧ください。もしよければいいねしてくださるとウルトラ励みになります!! 


 前編を既に読んでくださった方々、さらにいいねまでして下さった方々、本当にありがとうございます。さて後編では、前編で導入した「原初的自己肯定感」を前提にして発展させた自己肯定感ー安直ですが「発展的自己肯定感」とでも名付けましょうかーを導入し、積極的な楽しい人生を送るためにはどうすればよいかを考察しようと思います。また、「突き詰めて考えれば何もかも無意味なのだから何もする必要がない、したくない」という考え(消極的ニヒリズム、ニーチェを参照)やその他にも想定される反論やツッコミなどを、根拠を示しつつ否定しようと思います。前編と同様に、本文は具体的な例を交えながらゆっくり解説した後でざっくりと論旨を要約するので、手っ取り早いのが好きな方は前半は読み飛ばしていただいて〈要約 第三、四節まとめ〉以降のみ読んでいただいても構いません。それではお楽しみください。

第三節~自己肯定感の発展~

 第二節では原初的自己肯定感の成立について概説した。しかし原初的自己肯定感によって構築されるのはあくまで「他人の言葉に揺るがない自我」であって、自己否定に対しては脆弱であると言わざるを得ない。自己否定の連鎖ほど恐ろしいものはないーーひとたび自己否定の循環思考陥ってしまうと自力での脱出はなかなか難しい上に、極度の苦しみを伴うものだ。不幸自慢をしたいわけではないが、筆者の経験ではその生き地獄から抜け出すのに二年はかかったと思う。ではどのようにして自らの圧力に屈しずに前向きに生きてゆくことができるようになるのだろうか?

 その答えは「発展的自己肯定感」にある。発展的自己肯定感を説明するために、まずは原初的自己肯定感について復習しよう。原初的自己肯定感とは、「自分と向き合うことによって生まれる自己への正しい認識の上に成り立つ、『自分とはこういう存在である』という前向きな感覚のこと」であった。察しの良い読者は前編を読んだ際に既にお気付きだったかもしれないが、原初的自己肯定感のウィークポイントは、「前向きな」という点である。前編では「自分への理解が深まることには快楽が伴う」ことを前提にしたが、実際はその限りではない。元々の自己評価が現実よりも高かった場合、多くの場合自分への理解が深まることは苦痛を伴うのである。そうして生まれる原初的自己肯定感の出来損ない、即ち「自分と向き合うことによって生まれる自己へのより正確な認識の上に成り立つ、『自分とはこういう存在である』というネガティブな感覚」は、簡単にはポジティブなものにはなりにくい。(このネガティブな感覚を「原初的自己否定感」と呼ぶことにする。)ではどうするかというと、ここは残念ではあるが「苦しみながらも時間をかけて自分と向き合う」しかないと思う。その補助としてなるべく他人と関わらないようにすることや(自己相対化の頻度を減らすため)、自然の豊かな場所でリラックスすることは挙げられるものの、結局人生とは自分との闘いであると腹をくくらねばなるまい。どれだけ時間がかかっても、どれだけ苦しんだとしても、それを乗り越え原初的自己肯定感を得た先に必ず良いことが有る。それについては発展的自己肯定感を定義した後に説明する。

 では発展的自己肯定感とは何か。それは、「自分の感性から生じる欲望や願望を努力によって叶えるという成功体験の積み重ねによって生じる、堅固な自己肯定感」のことである。原初的自己否定感を乗り越えるというのはそれ自体が大きな成功体験であるので、原初的自己否定感を乗り越えた先にはもうすぐに発展的自己肯定感に手を伸ばすことができるのである。これが「どれだけ時間がかかっても、どれだけ苦しんだとしても、それを乗り越え原初的自己肯定感を得た先に必ず良いことが有る」と言った内容である。
 勿論、発展的自己肯定感を得るためには必ずその道を通らなければいけないというわけではない。順調に原初的自己肯定感を得て、順調に発展的自己肯定感へと辿り着く人ももちろんいるだろうし、どちらが多数派かは僕にはわからない。ただ一つ言えるのは、発展的自己肯定感にまでたどり着けばその後の人生で精神的にやられることは滅多にないはずだということだ。

 では成功体験の積み重ねというのを具体的に説明するとしよう。例えばあなたが、料理が上手になりたいという願望があったとする。はたから見れば些事であったとしても、本人にとって現状達成できていないが到達可能な目標であれば良いのだ。そこであなたは某有名レシピサイトに忠実に従いつつカレーライスを作ってみた。結果、美味しいカレーライスが出来た。この段階で一つの成功体験である。次にあなたはレシピをなるべく見ないよう暗記して調理したところ、レシピを見て作ったときに比べて何となくおいしくなかった。原因を考えてみると、ジャガイモをメークインでなく男爵を使っていたため煮崩れてざらざらした食感になっていたためであった。そこであなたはメークインを使ってもう一度カレーを作ってみたところ、上手にできた。

 こうした些細な成功の積み重ねが発展的自己肯定感へとつながるのである。こうして説明すると、拍子抜けするほど単純なことで、別に人生哲学というほどのことでもない。しかしこの単純な事実も、実際に体感するのと知識として知っているのとでは雲泥の差である。読者の皆様方も、是非とも実践してみてほしい。(既に実践されている方のほうが多いかもしれないが)ただここで注意すべきは、自らの感性から生じる願望でなければ余り意味が無いという点である。例えば子供に「勉強しなさい」と言うのは本人の生きていく能力を高めるという意義はあるにしても、本当の意味での自己肯定感は育まれない。よしんば自己肯定感のようなものが育ったとしてもそれは他人からの褒誉に依存するからである。これが所謂「学歴自慢」等というものにつながるのである。
 こうして発展的自己肯定感を得ることにより自らの圧力にも屈しずに前向きに生きてゆくことができるようになるのである。


第四節~予想される反論や実践段階についての補足~

 第三章までで僕の考えの基本的な部分は説明し終わったと思う。第四章では、新たな内容を導入するというよりは想定される反論やより実践的な内容について説明したり補足したりする形で、これまでの内容を深掘りしていく。長い上に余り良く練られてないので、読み飛ばして頂いても構わない。第四節にも明記されていない点など、更なる疑問点がある場合は是非ともコメント欄に書いていただきたい。コメントや質問は(悪質でない限りは)必ず返答するのでどうぞお気軽に。

想定される反論①
消極的ニヒリズムから脱せない
 前編では自分自身と向き合うことが原初的自己肯定感の構築へと繋がるということを説明した。

自分自身と向き合うというのは、その逆の過程ー即ち、自分の感性をはっきりと認識しようとすることである。換言すると、何かを感じた時に「なぜ」自分がそのように感じるのかを俯瞰的に分析することである。

これはその説明の際に太字で強調した部分である。しかしこの過程で、「なぜ」を究極まで突き詰めて考えてしまい、結果として「なにもかもが無意味だ」という観念に囚われてしまったという人もいるのではないだろうか。実は筆者自身その経験がある。自分が何を感じ、何に基づいて行動した所で畢竟それは無意味ではないか、どれだけ自己を肯定したところで無意味ではないか、と。この観念(消極的ニヒリズム)は中々抗しがたいものであるし、実際に見方によっては正しいとすらいえる。ニヒリズムについて簡潔にまとめてある記事を見つけたのでご参考までに。↓↓


 だが、この考えはある普遍的な前提を認めれば途端に解消する。その前提とは「人は『幸せ』又は『楽』になりたい」ということである。ここで幸せとは何かを厳密且つ誠実に論じると冗長になるため割愛させていただくが、幸せにも楽にもなりたくない人間は居ない、と敢えて断言する。その根拠はもはやこの記事ではお馴染みの「感性」である。もう少し言えば、理性がどれだけ意味を拒んだところで感性が快不快を生み、その快不快が幸せの方向を指し示すからである。(前編を読んでいただけばわかる通り、この記事の主張は感性を前提としている。もし感性は根源的なものでないという主張をお持ちの方はコメント欄にお書き頂きたい)幸せになりたいということを認めるのは、何もかも意味がないという考えを直接否定するものであるので、結論としては「感性があるから」消極的ニヒリズムは否定できるのである。これを「脱ニヒリズム」と捉えるか「積極的ニヒリズム」と捉えるかは各人にお任せすることにしておく。
 

想定される反論②&③
・「感性に対する目」が鈍く、本当に自分がしたいことが分からない
・したいことはあるけど途中で挫折してしまい、結局何もできない
 実はこれは我らがサークル「冷蔵庫」主宰者のGhibrinに尋ねられたことである。彼曰く「ちょっとやりたいことがあってもそれに打ち込むためのエネルギーがないから、可もなく不可もない現状に甘んじてしまい結局何も成せなくて嫌になる」のだそうだ。なるほど現実問題としてそのことを考える必要があるだろう。
 まず本当に自分がしたいことという問題について。この問題への解決策として僕が思いついたのは、あらゆるジャンルの人間の行為を書き出してみて、片っ端からやってみるということである。例えば広い意味での行為としては「娯楽」「スポーツ」「修行」「商売」「創作」「勉強」などがある。そこからさらに細かく派生させて様々な行為を書き出し、やってみるということだ。この方法の利点は、様々なジャンルに挑戦する可能性が高まるということだ。書き出さなければジャンルに偏りができがちであるし、そもそも思いつかなかったことも多いはずである。そしてただひたすらにチャレンジするのではなく、なぜこの行為は自分にとって楽しい/楽しくないのかなどを分析しつつ取り組むことで自分の志向性というものにより早く気付けるはずである。(もちろん全てが実行可能というわけではないだろうが)それでも何にも興味がわかない人というのは、おそらくしなければならないこと(他人に押し付けられたものも含む)があるのだろうと思う。しなければならないことがあまりにも圧倒的な状態では、何にも手がつかないのはやむを得ないことである。可能な限り早くその状態を抜け出すのが最優先だろう。
 では次に、したいことはあるが途中で挫折してしまいがちな場合はどうすればよいのだろうか。答えは、「正しい目標設定の仕方を身につける」であると僕は考える。そもそも挫折とは目標達成がかなわないことである。挫折ばかりだと感じてしまう人は、そもそも高すぎる目標を持っている(自分を過大評価している)場合が多いのではないだろうか。人生観などについて考えることも重要であるが、小さな目標達成を繰り返すためにコツコツと努力することも同じように重要であることを忘れてはいけない。芯のある幸せのためには発展的自己肯定感が必要であり、発展的自己肯定感のためには努力が必要なのである。この記事のようなメタな思考(哲学と言い切るのは怖い)は自分が何をすべきかを模索する営みにはなり得るが、能力の向上のための努力の代替品にはならないのである。

要約~能動的且つ主体的な人生観の再構築について~

 他人の言葉によって自己を絶対化するということは不可能なので自分で自己の絶対化を行う必要がある。自己の絶対化のためには自分の感性に対する目を養う必要がある。感性に対する目が養われるとは自分のことより深く理解するということであり、それによりある種の自己肯定感(原初的自己肯定感)が生じる。その自己肯定感というのは自分で養ったものであるので他人によって損なわれず、これこそが自己を絶対化した状態である。(ここまで第一、二節)
 、原初的自己肯定感を前提にして、自分の感性から生じる欲望を叶えるという成功体験の積み重ねにより発展的自己肯定感が涵養される。すると、他人からの圧力のみならず自らの圧力にも屈しずに前向きに生きてゆくことができるようになるのである。(第三節)
 欲望は感性から生じ、幸せになるための行為に意味が生じるので消極的ニヒリズムに屈する必要はない。原初的自己否定感を乗り越えたり発展的自己肯定感を得るためにはメタな思考のみならず努力が必要である。(第四節)

あとがき

 書いてると予想以上に長くなってしまいましたが、これでも言葉足らずなところは多いと思います。反対に冗長なところも多いと思いますし、もしかしたら自家撞着していたり循環論法に陥ったりしている部分があるかもしれません。もしひっかかることがあれば遠慮なくコメント欄にお書き下さい。書いてくださったほうが嬉しいです。最後に、この考察は自分でも不完全であると思っています。今後もより深く厳密に考え抜いていこうと思っているので、機が熟したら改良版を上げるつもりです。それでは。(Kyojin)

僕が所属するサークル「冷蔵庫」についてはこちら↓↓





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