"Call me 'they'" と聞いて、ピンとくるでしょうか?'They'というのは三人称代名詞で、現在'he'や'she'によって当たり前になっているジェンダー二元論にとらわれないものとして使用されます。
日本語には三人称代名詞が「彼」「彼女」しかなく、ジェンダーを意識しないものだと「あの人」とかになりますかね。今、英語圏では規範化したジェンダー二元論にとらわれない三人称代名詞として’they' を普通にしていこうという意識が広まっています。「新たな性」とかではなく、「近代以降の西洋的男女二元論の浸透によってないものとされ、無視されてきた性が再顕在化しようとている」というところがポイントになります。
こんなことを私はあまり考えたことがなかったのですが、大好きな本・映画レビューYoutuberのwithcindyが紹介していて即ポチった本を読んで、めちゃめちゃ納得したのです。
その本がこちら、アーティスト・執筆家のAlok Vaid-Menonの'Beyond the Gender Binary'という本です。
とても短い、わずか63ページのコンパクトな本ですが、言語化がとてつもなく上手く、衝撃的にわかりやすかったです。そして、読み終えた後には「なんて当たり前のことなんだ」という具合に「ジェンダー二元論を超えて」というコンセプトが頭にスッと入ってきました。
本は前半が著者のノンバイナリー(男女どちらにも属さない性)としての経験、後半がノンバイナリーをはじめとするLGBTQIA+への差別的言説への論理的な反論という構成になっています。
ぜひ社会に生きる人間全てに読んでほしいし、義務教育にしてほしいくらいなのですが、著作権を侵害しない程度にいくつかハイライトした部分を紹介してみたいと思います。(和訳は筆者による)
訳:本当の危機は、性別不適合者が存在することではなく、そもそも私たちが2つの性別しかないと信じるように教えられてきたことなのだ。
訳:私たちは、何十億もの人々を2つのカテゴリーのうちの1つに分け、これが物事の道理であると伝えている。これらのカテゴリー間の違いを強調し、誇張し、その中に存在する違いを最小化するのだ。
訳:言葉自体は新しいかもしれないが、性別二元論を超えて生きることは新しいことではない。アメリカンインディアンのツースピリット、南アジアのヒイラギ、インドネシアのワリア、メキシコのムクセなど、先住民や西欧諸国以外の人々は長い間、性別二元論を超えて存在してきたのである。
訳:ジェンダーを批評することは、ジェンダーを生み出すことと同じではない。ジェンダーについて語らないことで ジェンダーの不平等がなくなるわけではない。実際、それこそがこの不公平が続く理由なのだ。
訳:「女性は出産する」と言うとき、私たちは出産できない女性がいる一方で、トランス男性やノンバイナリーの人々の中には出産できる人がいることを軽視している。ジェンダーニュートラルな「出産する人」という選択肢は、ジェンダーニュートラルな兄弟姉妹と同じように、これらの現実をすべて含んでいる。ジェンダーニュートラルな言葉を使うことは、「政治的に正しい」ということではなく、ただただ正しいことなのだ。
訳:人間に二元的な性があるという考え方は、1700年代からの比較的新しい現象である。それ以前は、人間は本来、男性でもあり女性でもあるというのが、専門家の間では広く信じられていた。
訳:... カテゴリを作るために、ある種の違いを他よりも強調することは政治的な選択である。例えば、人間はサルとタコよりも共通点が多いにもかかわらず、サルを動物と呼び、私たちを人間と呼んでいる。... 男女間の差異を誇張するために、差異やカテゴリー内のばらつきがごまかされている。
訳:医療介入によってトランスが他のトランスのよりも「本物」になることはない。そしてそれは社会的な義務ではなく、個人の選択であるべきだ。医療介入をしたトランスの人だけが正式にトランスとして認められる考え方は、ジェンダーに配慮した医療が非常に高価で、世界中のほとんどのトランスやノンバイナリーの人々がアクセスできないという現状があるだけに、特に危険です。
訳:この複雑さはカオスではなく、ただ、そうなのだ。