逆説的にグローバル化を活用する
合理的なグローバル化とは、自浄作用がうまく機能しないシーンで浄化の意味もあると思っています。
最近進めているプロジェクトに際して、自身の気持ちとか、原点の部分を振り返ることが多いです。
好ましいと思われる価値観や評価の是非に納得していない人は多いと思いますが、だからと言って自分の心や魂までを売りたくなかったとしか言えないのかな。もしくは美学とか哲学とか、あえて言葉にすればそういうことだろうと思います。
社会の中で、自分がやりたいことを説明するために心だとか魂だとか、もしくは哲学や美学とはなかなか言えないできたこれまでですが、最近はそうでもなくなってきたのかなと思えます。
結果的に、前提として社会が納得するような表現や実績を踏まえてそうしようとしている「今」なのですが、私が「逆説的にグローバル化を活用している」とは、誰も気づいていません。
大切にしたいのは人の心だったりするのですが、永い積み重ねの中で記憶に染みてしまった習慣を払拭することは難しいのだろうと思います。
なので、たとえば司馬遼太郎氏の小説の中であるように、愛するものを守るために一度は焼き野原にしてしまう必要がある場面も存在するのだと思います。
大事なものを大事にしようとして、心がかたくなることはよくあることなのでしょう。
閉ざされた心を開いていくにはどうすればよいのだろう?
優しすぎて追い込まれたり、浸食される人たちが救われるにはどうすればよいのだろう?
そんな思いや葛藤は秘めたままに行動したいのが自分らしさなのだろうとも思います。
狭くて閉鎖的な枠の中で今、自分がやろうとしていることは一見、これまでの時代の流れに乗ったグローバル化の支援なのですが、抱いているビジョンとは、そのむこうにある個人の心や感性を大切にできる。そんな取り組みです。
本当はとてもめんどうくさがり屋な自分で、可能であるならば山奥の小屋で隠遁生活を懇願しているのですが、現時点では環境が許さないのでしようがなく、そんなことを考えています。
ただ、好きなものは好きでいたい。
大切なものを大切にできる世界であって欲しいと思います。
※写真は先日プチソロツーで立ち寄った風景