145. 売りものみたいな恋をした
『花束みたいな恋をした』を観た時、正直に言って、私は自分や大学の友人たちは随分と幸福だったんだ、と思った。例に違わず追い立てられるように大人になり、趣味嗜好の完全な一致(そもそもそんなものがあるとも思えないが)を運命と思うには素直さを失い、しかし、「変わっているね」と言われて喜ぶほどには自信に欠けていなかった。
夏休みに花火、水族館、夏祭り、BBQ、海、山、と予定をこなしていたことがあった。文字通り「こなして」いた。これではまるでスタンプラリーだ、と思い3年目にはやめた。友人たちと集まって素麺を大量に茹でたり、樹海や廃線跡をひたすら歩いたりした。結局今も鮮明に覚えているのは後者ばかりだった。
あの映画は、私には「サブカル」の名を冠した恋愛スタンプラリーに見えた。普遍的なものがウケるあまり良くない例なんじゃないか。
不特定多数の観客があの映画を「労働による疎外」と評したが、坂元裕二氏の意図はともあれ、彼らの破局と、そこに自分たちの姿を重ねた数知れないカップルの破局はきっとそんな表層的な問題ではない。労働に疎外されたのではなく、最初からしかるべきものを築き上げることができていなかった。ただ時期が来て、潮の満ちるように別れただけにしか思えなかった。
山音麦と八谷絹。結局彼らをつなぎ止めるものは何だったのか、私にはよく分からない。押井守の良さとその顔が分かること。今村夏子の小説を読んだこと。ゴールデンカムイを楽しみにしていること。天竺鼠のライブと終電を同じタイミングで逃したこと。「同じ界隈」にいるなら他の趣味嗜好が似通うのは当然ではないか。別に天竺鼠のライブを逃さなくとも、あの晩一緒にいなくとも、きっとまたどこかで出会っていただろう。誇張ではなく、仕組まれているのである。それは運命ではない。カルチャーの皮を被った資本主義だ、と野次を飛ばしかけた。血液型診断が16パーソナリティ診断になり、好きな映画診断になっただけである。麦と絹は頻繁に「答え合わせ」をする。「ショーシャンクが好き」と答える奴はアウト。一体そこから何がわかると言うのだろう。あなたに合ったコンテンツの提案がユーチューブのリコメンドだけなわけがないのに。好きなコンテンツが同じ、消費スタイルが同じ、というつながりを「観覧車に乗ったことがない」ことを知らないという事実が軽々と吹き飛ばす。
男女、もとより人と人との出会いにドラマチックさを求めているわけではない。そもそもそんなものは求めるべきではない。始まりは何だっていいはず。ただ、深く丁寧に知る、という過程をすっ飛ばしてはいけない。
結婚式の帰りのジョナサンで、かつての自分たちと同じように運命を勘違いした若い二人を見て、滑稽に思えたならこの映画は十分に喜劇になったはずである。運命や奇跡、唯一性だと思っていたものが簡単に再現され、かつ自分たちには二度と手に入れられないことがわかったところで、何ともない、おかしいね、と思える図太さが二人にはなかった。カルチャーへの愛以外のもの。アイデンティティ、真面目さ、相互理解。お洒落でもなければ洒脱さのかけらもないもの。彼らがかつてジョナサンですっ飛ばして来たものを、もう一度拾うダサさに目を瞑ることができたら、結末はおそらく違っただろう。対話の力は、次々とリコメンドされるPOPEYE的なカルチャーへの共感よりもはるかに強いはずだった。
「ラーメンが好き」「博物館でテンションが上がる」「コリドー街で名刺集めする」「トーストが落ちる向きやジャンケンについて真剣に考える」。この中にどれか一つでもオリジナリティのあるものがあっただろうか。トーストの落ちる向きなんぞは海外で学術論文が出されるくらいには擦られまくったネタである。グーグルストリートビューだって同じだ。そんなものに己の何たるかを任せてしまっていいんですか?
都市は絶えずタグ付けを要求してくる。原宿系、港区系、POPEYE系、BRUTUS系。広告がバズの真似をし、それを見た人々が今度は広告の真似をして喋っている。インプレッションゾンビと大差ない。
あれが好きなら我々の仲間ではない。これが好きなら気が合うはず。私はこの商品棚に並んでいて、こんなポップがついています。消費スタイルの共有だけで自己紹介や相互理解を済ませた気になってしまう。広告代理店勤めの両親を批判する場面が何とも皮肉でグロテスクだ。意図して撮っているのであれば本当に恐ろしい坂元裕二。
クリエイターが「カッコ良」く見えるのは、彼らがタグ付けされる側ではなく、タグを生み出す側だからである。趣味嗜好の一致が失われても、己の作品という強力な対話の武器が残る。絹と麦には何も残らなかった。何も残せていないことにあまりにも無頓着だったのだ。
絵を描き続けなくてもいい。ゴールデンカムイの新刊が読めなくたって、映画館に足を運べなくたっていい。ただ面と向かって素直な気持ちで、消費の入り込むすきのない互いの話をすればよかった。互いのダサさを笑って、知らない一面を掘り進めていけばいい。労働が悪いと言って、目をそらすべきではなかった。
マーケティングやタイパ、コスパが人知れず我々から奪ったものはあまりにも大きく、こんな破局ですら見事な花束として差し出される。本当に「疎外」があるとするならば、資本主義による個の疎外であり、対話の挫折である。
売りものみたいな人間関係が誇らしげに花屋の店先に並んでいる。